everyday

一年目のカップ

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昨年の益子陶器市で出会った珈琲カップ
使いはじめてちょうど一年が過ぎた。
ふと、この一年のことを思い返してみる。

*

新しくできるようになったこと、
もうできなくなってしまったこと。

新しく得ることができたこと、
今はもう、離れていってしまったもの。

思い返すといろいろなことがあった。


これは僕の性格なのかな、
どちらかというと、うまくいかなかったことが、
頭の中でくるくると回る。

変わりたいのにそうなれないこと。
変わりたくないのにそのままでいられないこと。

なかなか思うようにいかないなあと、
小さくため息をつきながらも、
このカップで珈琲を飲む時には、
不思議とこころが穏やかになる。

そんなふうにして、
目の前の自分と会話する時間、
いつも大事にできたらいいなと思う。

重なり合うそのふたつ

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高校サッカー選手権決勝を観てきました。
ほぼ満席、6万人のものすごい熱気。

試合開始前、市立船橋の選手が、
スタンドから応援している生徒たちに、
頭を下げ、手を振り、感謝を伝えている。
限られた11人だけがピッチに立ち、
それを沢山の仲間たちが支えている。
試合は始まっていないのに、
その光景を見ただけで、ぐっときた。

胸が熱くなる素晴らしい試合。

市立船橋主将の和泉くん、かっこよかったな。
さわやかだけど頼りがいのある存在。
決勝という大舞台で2得点を決めるんだから、
本当にすごい男だ。

試合終盤にかけて夕暮れになってくる。
高校サッカー決勝はいつもこの時間帯。
高校生活をサッカーにかけた時間が
だんだんと終わりに近づくにつれて、沈みゆく夕日。
重なり合うそのふたつに、じーんときました。

朝、流れ星の音を聴く

朝5時過ぎに家を出る。
朝だけど夜のような闇。
自転車に乗って空を見上げた、
その瞬間に流れ星を見た。

その光が見えてから数秒は、
しーんとした静寂に包まれた。
それから少し遅れて、
なにか音が聴こえる。
こころの中で。

そのあとのしばらくの間、
あの音はどんなだったかな、
どう表現できるかなと、思いを巡らせる。
始発近くの電車の中で。

ほんの一瞬の出来事が、
そのあとしばらく、
こころの中を動き続けた。

リュックが開いていますよ

夜遅い時間の満員電車は、
自分が疲れていることも相まって、
どんよりとした気持ちになることが多い。

今日の車内もずいぶんと混雑していた。
静けさには様々な種類があるけれど、
ここにあるのは、
どことなくピリピリとした静けさ。

そんなとき、若い女の子が、
おじさんに向かって、ゆったりと言葉を発した。

「リュックが開いていますよ、
 中身が落ちてしまいそうで心配で」

なんとも、自然で優しい声だった。

おじさんは、少し照れくさそうに、
でもなんだかうれしそうな表情をしていて、
「ありがとうございます」の言葉が温かく響いた。

ぱっと車内の静けさの種類が変わるのを感じた。

駅について、改札を抜けると、
ちょうど、皆既月食が始まっている。
遅い時間だと、ほとんど人通りのない帰り道だけど、
今日は、夜空を見上げる沢山の人たちとすれ違う。
それぞれの人の時間が、
そっと止まってしまったような、静かで温かい感覚に。

24時をまわって家に戻ったのに、
ほとんど疲れを感じていないことが不思議。

たなかさんが淹れてくれた珈琲

いつから好きになったのだろう。
そのタイミングは曖昧なことが多いけど、
珈琲を好きになったときのことは、
はっきりと覚えている。

2007年の9月、
千歳船橋にある珈琲工房ホリグチで、
深煎りのマンデリンを飲んだときのこと。
運んできてくれるときから香りが広がり、
口に含むと、頭の奥まで、しーんとする、
生まれて初めて感じる心地よさ。

そのときのことを voice に書いていて、

「日々を過ごす中で、
 僕には知らないことや
 分からないことが山ほどあって、
 そのことに向き合うたびに、
 不安になったり心細くなってしまう僕ですが、
 珈琲工房ホリグチの深煎りの珈琲を飲みながら、
 知らないことに出会うことの
 素晴らしさを感じていたのでした。」

という、うれしい気持ちになっていたのでした。

*

そんな、すてきな出会いを引き寄せてくれた、
そう、珈琲工房ホリグチを教えてくれたのが、
百景のドラマー、たなかけんさんでした。

そのたなかさんが、先日、
「赤のブレンド」を発売しました。
よい香りがしてきそうなブレンドですが、
実際は、よい音楽がブレンドされています。


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この作品、僕もrec、mixエンジニアとして、
全面的に関わらせていただきました。

生ドラム、ギター、ベース、電子音が、
絶妙に絡み合う、全12曲。
バラエティに富んだすばらしい曲たちを、
1つの作品にミックスしていく作業は、
なかなか時間がかかりましたが、
そんな膨大な時間も忘れてしまうほど、
有意義でわくわくした制作期間でした。

そして、とても味わい深い、
大切な1枚に仕上がりました。
自分の作品が仕上がったときのようなうれしさ。

休憩のとき、たなかさんが淹れてくれた珈琲、
ほんとうにおいしかったなあ。

*

たなかけんオフィシャルウェブサイトで、
試聴や、一曲無料ダウンロードができるので、
ぜひチェックしてみてください。

そして、6/18(土)には、
三鷹 おんがくのじかんにて、
リリース記念のライブがあるそうです。
この日は、なんと、来場者全員に
『赤のブレンド』をプレゼントという、
びっくりするほど太っ腹なこのイベント。
ぜひぜひ、オススメです!

たなかけんオフィシャルウェブサイト
http://tanakaken.net

バーチャル家族生活

ちょうど焼き上がったところの、
おいしそうなフランスパンを買ってきた。
そうだ、今晩は久々に、
クリームシチューを作ろうと、下準備。
新じゃが、とてもおいしそう。

野菜をコトコト煮込んでいるあいだに、
ランニングへ。隙間時間有効活用?

家に戻ると、
窓ガラスがうっすら曇っていて、
玄関を開けると、子どもの頃の
温かい記憶を思い出すような、
そんな香りが広がっていた。

ひとり暮らしじゃないみたい。
バーチャルな家族生活(笑)。

僕は、ひとりで過ごす時間も好きだけど、
そう言えるのは、きっと、
こころのどこかに、
温かい記憶があるからなのかも。

今日のシチューはとてもおいしそうだ。

夕暮れ、おじいさんの写真

夕暮れ時にランニング。

最近、euphoriaのしょうたくんが、
ツイッターでランニングタイムをつぶやいていて、
日に日によい記録になっているので、
僕もタイムを意識しようと思い、
はりきって出かけました。

好調な滑り出し、
わりといいペースで折り返す。

その途中、川沿いの道を走っていると、
老夫婦とすれ違いました。

おばあさんが、きれいな夕焼けを背景に、
おじいさんの写真を撮っていた。
おじいさんは少し照れくさそうだったけど、
とてもやさしい、素敵な表情をされていた。

その光景が、ほんとうに美しくて、
様々な物語が頭に浮かんできて、
じーんときてしまって大変でした。

それで、タイムは、がたっと落ちました。
言い訳です。

これぞ笑顔

幼なじみの親戚の赤ちゃんを
抱っこさせてもらった。
はるくん、生後二ヶ月。

顔も手足もぷくぷくとまんまるで、
ほんとうにかわいらしい。
小さな手に触れると、
僕の指をぎゅっと掴んでくれる、
その握力の強さに驚いたり。

ことばはもちろん、
視点もまだあやふやだけど、
ふとしたときに笑うのです。
なにかうれしいことが、
はるくんのなかで起きているのでしょう。

生きていくうえでは、いろんな笑顔が必要だけど、
笑顔ってなんだろうと思い浮かべるときには、
はるくんの表情を思い出したいと思いました。


*


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ハニーサックルと月がきれい

花壇にハニーサックルが咲いたので、
母親に写真をメール。
今年はもう咲かないと思っていたようで、
満開の写真を見て喜んでくれた。

夜になると、いい香りがするんだよ、
と教えてくれたので、外に出た。
壊れかけの街灯のおかげで、真っ暗だけど、
ハニーサックルの赤色が、ぼんやり見えた。

ほんとうに、いい香り。
日中は、その香りを包み込んでいるのかな、
夜になると、うっとりするような、甘い香り。

ふと夜空を見上げると、まんまるのお月さま。

パジャマ姿のまま、しばらく、ぼんやりと。
夜風の心地よい季節がやってきた。

作家さんの目を見ながら

益子の陶器市に行ってきました。
震災で窯元などが大きな被害を受けて、
開催が危ぶまれていたようですが、
沢山の人たちで大賑わい。

お目当ては、長く大切に使えそうな珈琲カップ。
出店数は500店以上。ゆっくり歩きながら、
触れてみたり、手に取って重さを感じてみたり。
ものすごい数の珈琲カップがあったわけですが、
そのなかで、不思議なほどにしっくりくるものが、
ただひとつ、ありました。
なんとなく良いではなく、これしかない、という感じ。
出会えてほんとうにうれしかった。

見つけたのは小さなテントにあるお店で、
そのカップの作家さんから直接購入しました。
ていねいにラッピングしてくれて、
手渡してくれた、そのとき、
自然と僕は作家さんの目を見ながら
「ありがとうございます」と言っていて、
作家の方もこちらの目を見て微笑みながら、
「ありがとうございます」と言ってくれた。

あたりまえのことかもしれないけれど、
僕には、なんだかうれしかった。
少しばかり値の張る買い物でしたが、
心の落ち着きが得られるよいひとときでした。

*


それから、益子に来たら、ぜひ行きたかった、
starnetでもよいひとときを過ごしました。
山の食堂は残念ながら、震災の影響でお休みでしたが、
カフェの方で、珈琲とケーキをいただく。
すっと身体にとけ込むような、やさしい味わい。

そして、厨房で働く星さんの姿。
ちょっと前に、暮らしの手帖の連載で、
「星さんのセーター」という読み物があって、
その文章がとても印象深く残っていました。
そのときの気持ちと合わさって、
星さんの凛とした姿に、見とれてしまったり。


益子の街にまた来たいな、と感じさせてくれる、
たっぷり満たされた時間を過ごすことができました。

*


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絵画を眺めること、音をつくること

先日、ホキ美術館に行ってきました。
北海道から一週間ほど東京にきていた父親と、
ドライブをかねて、首都高を走り湾岸道を抜けて到着。
千葉市緑区にあるホキ美術館は、
昨年11月にオープンした、写実絵画専門の美術館。

実は、写実絵画には、それほど関心がなかった。
「まるで写真みたい」
というありふれた感想に違和感を覚えて、
そして、その台詞が
僕の中に残り続けていたようで、
せっかく絵画を見るなら、
もっと想像の広がるものが見たい、
なんて生意気なことを考えていました。

でも実際に、自分の目で、
素晴らしい写実の作品を眺めていると
沢山の発見があったのでした。

たとえば、
グラスに注がれた透明な水のなかにも、
無数の色彩が潜んでいるということは、
写真を見ていただけでは、なかなか気づけなかったと思う。

その無数の色彩は、
作品にうんと近づいて眺めると、浮かび上がってきた。
少しの距離をおくと、写真のような光沢が生まれる。

*

近づいたり、離れたり、その動作を繰り返していると、
それが、音作り(ミックス作業)にもよく似ていると感じた。

サイン波以外のすべての音には、
複数の音波が含まれている。
たとえば、ギターの単音にも無数の音波が存在していて、
それを音源にするときには、
聴きやすくするため、心地よく聴かせるために、
様々な音波を強調したり削ったりします。
その作業中というのは、まさに、
絵画にうんと近づいて眺めている感覚。

そして、編集がすすんだら、
ギター以外の音と同時に鳴らしたり、
一般の環境にあるようなラジカセで
聴いてみたりするのですが、
それが、絵画の全体を眺める感覚。

近づきっぱなしでもダメだし、
離れっぱなしでも、退屈な仕上がりになる。
ふたつの動作を繰り返しながら、音をつくっています。


これって、日常生活でも、
いろいろ置き換えて考えられそう。
人との関係もそうだろうし、将来を考えることや、
料理をするとき、掃除をするとき、などなど。

近づいたり、離れてみたり。
その動作を繰り返すことを大事にできたらと思います。

なくしたものたちの国

図書館で予約していた本が届いて、
それを受け取って、自転車に乗ろうとした時に、
大きな地震が起きた。

すぐに館内から沢山の人が駆け出してきて、
なんだか嫌な予感がして、iPhoneで震源地を見ると、
東北沖で起きたものということが分かる。
東京でこの揺れなのだから、
これはもう、大変なことになったと、急いで家に帰る。

テレビをつけると、
全く信じることのできないような映像が、
次々と映し出されている。
その日からの記憶は、あまりにぼやけすぎていて、
輪郭がまったくないような時間が続いていた。

悲しさ、恐ろしさ、無力感、
頭も心も混乱しすぎている。
テレビやtwitterなどは要所要所だけにして、
落ち着いて過ごそうとしても、難しかった。
音楽も全く耳に入らなかった。
そんな自分に対して、強烈な焦りを感じたりもした。

*

ちょうど一週間が過ぎて、同じ時間に黙祷をして、
久しぶりに、いつもの珈琲屋さんに出かけた。
ここのマスターは、もの静かでシャイな方だけど、
この日は今まで見たことがないような、
優しい表情で、穏やかに珈琲を淹れてくれた。
節電で薄暗いはずの店内でも、
それに全く気づかない温かな雰囲気。

いつもいるお客さん、この人とは
もう何十回も同じ場所で会っているけれど、
今まで一度も話したことがなかった。
挨拶すらしたことがない。それなのに、
その人と、自然と会話がはじまっている自分に驚く。

少し心が落ち着いてきたところで、
一週間前に図書館で借りた本を読みはじめる。
「なくしたものたちの国」という本。
読み始めから、ドキドキした。
ひとつひとつの描写、言葉が、
どうしても、今回の震災のことに重なって、
涙があふれてきそうになる。
でも次第に、その物語のなかに入り込んで、
一時だけ、ふわふわと、今の自分から
離れていくような、そんな感覚になっていった。

あとがきで筆者の角田光代さんはこう書いている。

"なくしたものの、かたちや色、声、なくしたときの気分、
はっきり覚えていればいるほど、それが「ない」というより
「あった」ことを思い知らされる。あったものはもしかして、
無になったのでなく、どこかに在り続けているのではないか。
ひっそりと。息をひそめて。わたしの見る世界とは、決して
交わらない場所に、でも、確固として今も在るのではないか。"

*

姿、かたちが変わってしまっても、
それは無になったわけではなくて、
新たなかたちをして在り続けるのかもしれない。

たとえば、
シャイなマスターの初めて見せてくれた笑顔、
いつも会っていたのに話したことのない人との会話。
それから、自分の家族への思いやりや、
困っている人への心配り、などなど。
震災が起きてからのわずかな時間で、
今まであまり気づかないでいた、
さまざまなことを、それぞれの人が感じていると思う。

今この瞬間にも、懸命な救助活動をされている人、
避難所で大変な生活をしている人、
そういった人たちを思うと、今すぐにでも、
自分にできることは、と慌ててしまうけれど、
これから復興までにするべきことは沢山あって、
そのために費やす時間も計り知れない。

震災を通して感じていること、
今まで気づかないでいた、
大事なことのひとつひとつを、たいせつに、
これから長く続く復興への日々を
強く、積極的に生きていきたい。

そしてときどき、
「なくしたものたちの国」を
読み返したいと思っています。

京都1. 旅の中で聴く音楽

旅をすることの中には、多くの魅力があるけれど、
僕は、目的地に向かう時間そのものが好きです。

池袋発の夜行バスに乗って京都に向かう。

消灯になるまでの間の2時間ほどは、本を読み
そして灯りが消えてからは音楽を聴く。

近頃、音楽を聴いていて、
きれいだな、斬新だな、上手だな、
心地よい音だな、と思うことはあっても、
こころが震えるような瞬間は少なくなってきた。
でも、旅の中で聴く音楽は、
不思議な程、こころを揺さぶる。

思い返せば、この感覚って、中学高校時代には、
日常でも頻繁に湧いてきていたように思う。
そしてその感覚から生まれた曲は、
今でも演奏し続けている大切なものが多い。

見知らぬ土地、人との出会い、
初めて触れる出来事の多さ。
不安と楽しみが色濃く入り混じった、
そんなドキドキする気持ちが、旅の中にはある。

きっと、中学高校時代の多感な時期には、
これと同じような感覚が日常のあちこちに
ちりばめられていたのかもしれない。

歳を重ねて、知識が増えるにつれて、
見知らぬものとの出会いに対して
疎くなってくることがある。

よい音楽を作ろうと、
音の並びを学んだり、楽器の練習を
コツコツすることも重要。
でもそれと同じに大切にしたいのは、
旅をすることはもちろん、
日常の中においても、新鮮な眼差しで、
不安や楽しみをごちゃ混ぜにした気持ちを、
多く持ち続けるということ。

AM6:15、目覚めたら、京都に着いていた。

*

京都2. はじめてのロケ地めぐり

京都3. ”その人”が出ている音楽


京都2. はじめてのロケ地巡り

早朝に京都の河原町に到着。
近くのスパでひと休み。それから、
よく晴れた午前中、冬の京都を歩く。

euphoriaのライブで京都に来る時は、
いつも車だったので、
あまり土地勘をつかめないでいたけれど、
今回は、一人であちこち歩き回っている。
バスの時刻表を眺めたり、電車の路線を調べたり、
少し迷いながらも自分の足で歩いたり。
そうしているうちに、
京都の街の地図が少しずつ頭に入ってくる。

小さな子どもくらいある重さのリュックと、
ギターのハードケースを持って移動するのは大変なので、
ライブをするTranq Roomで、荷物を預かっていただく。

リハまでは、2時間ちょっと。
あまり遠くには行けないので、
iPhoneのmapを使って、コースを模索。
そういえば、先日観た
マザーウォーターという映画の撮影は、
この辺りだったようなと思いついて、検索。

マザーウォーター、
質素でありながら温もりを感じる、素敵な映画でした。
その中のシーンで、小泉今日子さんが
珈琲を淹れているカフェがあって、
そのお店が分かったので、わくわくしながら散歩を再開。
映画のロケ地巡りは、事前準備が大変そうで、
僕がすることはないだろうなと思っていたけれど、
iPhoneのおかげで、ほんの思いつきで実現してしまった。

お店の雰囲気は、映画のときとほとんど一緒で、
店内は珈琲のよい香り。
マザーウォーターの心に残っている場面を
思い出しながらのしばし休憩。
ランチのエビチリ茄子の温泉たまご丼も美味でした。

Tranq Roomに戻り、リハーサルがはじまる。

*

京都1. 旅の中で聴く音楽

京都3. ”その人”が出ている音楽

修理屋さんの手のひら

車の修理屋さんに行ってきました。
担当の方は僕と同じ歳くらい。
表情が生き生きとしていて、
着古された作業服が格好よく見える。
てきぱきとした対応でも、
親切な説明は分かりやすく、
とても感じが良い。

そして、汚れだらけだけど、
しっかり手入れされている、
まさに職人さんのような手のひら。

作業の間、ショールームで、
あっさりとした味のコーヒーをいただきながら、
僕は、あの手のひらを思い浮かべ、
やりがいのある仕事について考えていた。

汚れた手のひらから職人さんを想像したのは、
きっと、修理工の人が自分の仕事に対して、
やりがいを持って、楽しそうに向き合っていることを、
始めのわずかなやりとりのなかで、感じたからだろう。

ばっちりと修理が完了して、
おまけに洗車までしてくれて、きれいになった車。
その車を運転しながら、
自分はどう仕事と向き合っていこうかと考える。
背筋がぴんと伸びる思いがしました。

後戻りすることはできない

自分でググれ、という言葉をよく耳にする。
そのとき僕はなんとなく、妙な気持ちになってしまう。
でも周りでは、こういう考え方に対する違和感が、
どんどんと少なくなってきていることも感じています。

反対に、
ネットに依存しすぎとか、
電気使えなかったらどうするのとか、
記憶力が低下するよ、
といった一方的な考えも、どうなのかなぁと思う。

そう遠くない未来では、今以上に、
スマートフォンやそれを上回る機器があって、
即座に検索するのが
当たり前になっているのかもしれない。
人は便利なものが好きなので、
この流れは確実と言ってしまうこともできるでしょう。

でも、たどり着く結果は同じでも、
そこに至るまでに、どんなプロセスを踏むか、
それによって、その先の使い方も変わってくるのでは。

*

今から14年前、
僕はPEALOUTというバンドに出会いました。
PEALOUTの存在がなかったら、
ここまで音楽を続けていなかったという程に、
本当に大好きなバンド。
その頃僕は、中学生でした。
生まれて初めてライブハウスに足を運んだのは、
今は無き、西新宿ロフトでの、
インディーズ時代のPEALOUTのライブ。

そしてその頃というのは、
じわじわと、携帯電話を持つ人が
増えてきているタイミングでした。

「世界は早すぎて、俺はつい落としてしまったんだ、
 せつなさがきれいな、水色に浮かびあがる心。」

それまでの英語詞から、日本語詞になって、
初めてのシングルの歌いだしが、このフレーズ。
どっしりと心に焼き付いたことを覚えています。

その頃のインタビュー記事で、voの近藤さんが、
携帯電話を持たないでいることを話されていた。
便利すぎて見えなくなるもの、その存在を、
そのとき初めて僕は、認識したのでした。

便利さはうれしいことだけど、
便利になりすぎたらどうなるか?
得るものがあれば、失われるものもあるという視点。
正解が一つだけ決まっているわけではなくて、
自らの意志で選ぶことの重要性。
そんなことを感じながら、
僕はしばらく携帯を持たなかったし、
持ってからも、見えなくなったものについて考えていた。

それで、今の時代になってみると、
携帯電話なんて当たり前すぎて、使うことに対して、
何かしらの疑問が生まれる余地すらなくなっている。
これから携帯を使い始める子供に向かって、
本当に必要かな?なんて問いかけることは難しい。

*

検索技術が進んでいくことにおいても、
同じことが考えられるのではないかな。

自らの頭で答えを思い描く、
そのたっぷりとした時間の大切さについて考えたり。
反対に、即座に意味を知り、
即座に発展させる大きな魅力を考えたり。

多くの選択肢があるときに、
さまざまな考えを巡らすことを大切にしたい。
このタイミングへ後戻りすることはできない。
たとえ、答えが見えているようでも、
そこに辿り着くまでの過程を大切にしたいと思う。

*



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PEALOUT / 爆裂世界~世界に追い越されても~

たすきという存在

年末は、大掃除や機材入れ替えなどで
ばたばたしていました。
そして気づいたら大晦日になっていて、
楽器屋のセールが今日までと思い出して、
夕方、渋谷に出かけました。

なんでこんな日に、ばたばたしているんだろう、
買い物行くならもっと早くに行けばよかったと、
ひとりごちながら、ふらふらと渋谷まで。

目当てのオーディオインターフェイスは
まだ在庫があって、ほっとひと安心、購入。
そして、楽器屋を出るときに、
年末キャンペーンのガラガラくじがあって、
当たるわけないと思ってガラガラとすると、
銀色の玉が出て、2等が当たる。
2万5千円のインナーイヤホン。
こういうことって生まれてはじめてだったので、
うれしいを飛び越えて、とても驚く。

*

思い返せば、出かけるまでに、
ばたばたしていたおかげで、
よいタイミングになったのかも。

しっかりかっちりと日々を過ごすことだけが、
よいこととは限らないんだなぁなんて思ったり。
なので、お正月は例年よりもくつろいでみました。

よい塩梅にくつろいでいると、
自分へのこだわりが程よくうすらいできて、
周りのモノがそのままの形で、
見えてくることに気づきました。

そのおかげかどうか分からないけれど、
例年以上に今年の駅伝には感動しました。
たすきという存在が、すごいなぁと思って。
他の人につなげたい、届けたい気持ちがあるから、
実力を遥かに超えた力を発揮できる。
それを思って、涙ぐんでいました。

*

人は、ほっといたら、
自分のことばかりを大切にしてしまう。
でも、周りの人のためになにが出来るだろう、
なにを届けられるだろうと、
ほんの少しでも考えられるようになると、
そこから大きな一歩を踏み出せるような気がします。

なんだかとりとめもないことを
つらつらと書いてしまいましたが、
そんなこんなで2011年、
今年もよろしくおねがいします。

まずは、organic stereo、二年ぶりのライブ。
1/28、下北沢440、百景企画のすてきなイベントです。

・百景
・クボアツシ+オオタツバサ(ar)
・見汐麻衣
・organic stereo

http://www.organicstereo.net/news/

よろしければ、ぜひいらしてください。

土曜日の午前中

心地よい土曜日の午前中。
いつもの珈琲も、より美味しく感じます。

iPhoneのOSが新しくなって、
無線でスピーカーを鳴らせるようになった。
これは想像以上に快適で、ふとした瞬間に、
お気に入りの”TIMEDOMEIN”の
スピーカーを鳴らすことができる。

それで、kate walshのうたごえを聴いていたら、
朝の窓越しの景色と相まって、
とてもこころに沁みわたってきた。
ぐっとくる。この感覚があるから、
きっと自分の曲も作ることができるのだろう。

それから本を読む。
じつは、さっきも本を読んでいたのだけれど、
いつのまにかkate walshに入り込んでいたみたい。
本を読むときは、うたが無くて、
ビートもあまりないような、楽曲が適しているようで、
そんな曲を数百曲集めたプレイリストを作成して、
シャッフル再生しておくのがお気に入り。

いつか、時間を見つけて、
読書のための楽曲たちを制作して、
アルバムにしようかと思っています。


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Kate Walsh - Tim's House

*


Kate Walsh - Your Song

空間を使って本質を

久々に髪を切りました。さっぱりと。
ちょっとだけ身軽になったこの心地よさは、
先日、iPhoneのカバーを
外したときの感覚と少し似ている。

身の回りのモノって、
そのままにしていると、増えていく一方。
特に、デジタル機器に触れる機会が多くなった今、
データなんて増やしても、
物理的にはほとんど変わらないので、
減らすということに意識が向かない。
iTunesに入っている膨大な曲の数を見つめながら、
いつもそんなことを思うのです。

だからこそ、日常生活において、
ほんとうに大切なものってなんだろうと、
鈍った神経を揺さぶるように、
いろんなものと向き合うようにしています。

曲を書くときにも、
同じようなことを考えています。
この音って必要なの?
この展開の繰り返しは何のため?と、
頻繁に問いかけるのです。

モノが減っていくと空間ができて、
その空間を使って本質を見つめる努力をしたい。
そんなことを考えています。

この流れからいくと、
髪型も坊主までいければ、
説得力があるのですが、
それは、またちょっと別次元の問題ということで。

すっと馴染む感覚

秋晴れの気持ちよさに誘われて、
野川公園へ小さなピクニックにでかけてきました。

木々はほんのりと
紅葉色に染まってきているけれど、
陽射しはまだまだ暖かくて、
少し日焼けしたようです。
今も顔がぽかぽかしています。

川沿いの道をずっと歩いて、
すこし疲れたころ、芝生の上でランチ。
おにぎりと、さつまいもの甘煮。
目の前には人影もなく、
大きな芝生と木々がひろがっていた。

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お腹が満たされたところで、またゆったりと歩く。


最近は、いろんなことを考えては、立ち止まったり、
少し進んで、また考えたり、そんな時間を過ごしています。

ゆっくりと考えることは大切なことですが、
行き過ぎると、頭も身体も重たくなりすぎることも。

今日過ごした時間は、
身体にすっと馴染む感覚が心地よかったのですが、
この感覚は、考えて見つけられる、
そういうものではないような気がします。

この”すっと馴染む感覚”をイメージしながら、
歩んでいけたらいいなぁと思っています。

灯りひとつない贅沢な時間

2泊3日で、尾瀬に行ってきました。
近々オープンされる、
アウトドア関連のwebサイト音楽を
担当させていただいていて、
その関係で、尾瀬ハイキングを
ご一緒させていただきました。
あー、しあわせ。

紅葉が真っ盛りな尾瀬の自然を眺めながらの木道は、
なんとも、豊かな気持ちに。

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宿泊は尾瀬ロッジ。
ここで過ごした時間も、心に残るものでした。
20:30に消灯という時間の流れ。
白いご飯がとてもおいしく感じる夕食の時間。
そして携帯の電波がまったく入らない、不思議な感覚。

携帯やインターネットの普及で、
様々なことが便利になってきているということに対して、
特別、否定的な思いを抱いたりということはないけれど、
そこから得られる
「つながり合っている」感覚というものの、
意味や形、そして、どのくらい確かで大切なものなのか、
そういったことを、ほんのいっときですが、
外側から眺めることができたような気がしました。
山小屋の窓の外にひろがる、
灯りひとつないほんとうの暗闇と静寂を眺めながら、
なんとも贅沢な時間の流れを感じました。

帰り、新幹線で大宮に到着すると、
人の多さにびっくりする。
油断すると人にぶつかってしまいそうで、怖い。
尾瀬の環境との違いに驚きました。

*

そんなこんなで、今晩はというと、
代官山unitまで、オールナイトのイベントに
行ってくるわけで、ちょっと心配です。
昨日の人混みでの驚きに加え、
元々、オールのイベントはあまり楽しめない自分。

でも、そんなこともさておいて、
観にいきたいというわけは、
9年ぶりに聴いたovalの新譜が、
とても素晴らしかったから。

ゆらりゆらりと楽しんできます。


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振れるとき、目にする残像

久しぶりに温かい珈琲を入れた。
いろんなことが楽しく思えてくる。
そんな気持ちにさせてくれる、
久々の、このさらりとした涼しさ。

今夏は本当に暑くて、
こころの底から、涼しい場所に引っ越そうかと、
真剣に考えたりもしていました。
でも、あの狂おしいほどの暑さがあったおかげで、
その反動で、今日のこの気持ちがあると思うと、
少し考え方も変わってくる。

振れ幅が大きいことは大切なことだと思う。
その振れるときに目にする残像から、
大切な音楽も湧き上がってくるような、
そんな気もしています。

そして、その振れ幅を存分に味わえるように、
自分自身の軸だけは、どっしりと、
ブレないものでありたいなぁと、思うのです。

サラダの味とシンセサイザー

JUNO-106の修理で、初台まで行ってきました。
車に乗せて、夜の青梅街道をするすると。
JUNO-106は、80年代に作られたアナログシンセサイザーで、
僕が大好きなシンセです。7〜8年使っていて、愛着たっぷり。

でも、困ったことに、JUNO-106は、すごく壊れやすい。
おまけに、当時の部品はメーカーにないので、
一般の楽器屋さんでは修理不可。
なので、いつも、マンションの一室にある、
小さな修理屋さんにお願いしています。

ひとまず預かってもらって、1〜2時間ほどで、
連絡をすることに。
どこで時間を使おうかと思って、
空腹に気づき、サラダをたくさん食べたいことに気づき、
近くのサラダバーのあるファミレスへ。

たくさんの種類の野菜を、のんびりおいしく食べていると、
思ったよりも早く、修理完了。

元気になったJUNO-106と共に、
街灯のきれいな、車の少ない道を、
たのしみながらのドライブ、
家に24時前に戻ってきた。

*

曲作りでは、ソフトシンセ(パソコン上のシンセ)
もよく使います。近頃のソフトシンセは、
音もどんどんよくなってきていて、
完成した曲を聴いた限りでは、
実際のシンセと区別があまりつきません。

でも、JUNO-106のような
ハードシンセ(実体のあるシンセ)は、
なにが違うかと考えてみると。
曲を作る時の、インスピレーションが豊富で、
作りこむ音、生まれてくるフレーズが、独特なのです。
つまり、曲作りの行程部分が充実してくるのです。

その行程部分の充実はどこからくるかと考えてみると。
実際に触れるツマミの感触だったり、
使い込んでいく内に、本体が少し汚れてくる感じだったり、
そういったところから湧き上がる、
愛着心から生まれてくるのではないかな。

そして、わざわざ、車を走らせて、
重いシンセを運ぶ、
そのとき目にした、街灯の色合いだったり、
車の少ない大きな道路の心地よさ。
そして、いろんなサラダの味のことだったりが、
JUNO-106に触れるときに、
ふと思い出したりする。

そんな感覚って、なんともかけがいのない、
特別なものだなぁ、と思うのです。



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素敵な本は騒音を防ぐ

谷川俊太郎さんの「ひとり暮らし」が
文庫になっていたので、
それを片手に電車に乗り込む。
ユーモラスな名エッセイ。

都営大江戸線は、ものすごい騒音、
という記憶があったけれど、
そのことは、六本木で降りてから気付いた。
「ひとり暮らし」に夢中になっていたのでしょう。

ノイズキャンセルイヤホンをつけても、
防げないような騒音でも、
素敵な本にひきこまれると、
なんてことなしに、騒音を防ぐから不思議です。

六本木superdeluxeで、arのライブを観てきました。
フィジカルな躍動感にあふれていて、
身体が心地よく揺らめきました。

こないだarのクボさんとフジモトさんと、
吉祥寺で飲んだ時、
身体を鍛えていること、
それを内側に保って、演奏することの、
大きな可能性についてお話されていた。

そのときのことと、強くリンクして、
観ているこちらも、健やかな気持ちになったのでした。

superdeluxeを出て、駅まで歩いていると、
青山ブックセンターが、
まだ営業していたのでうれしくなる。
朝5時まで営業、六本木という街の時間の流れを感じたり。
POP1枚ごとがオリジナルで、おもしろい。
探していた、モレスキンの五線譜を購入。

終電間際の電車の中、
「ひとり暮らし」の続きを読みながら、
ゆらりと睡魔に襲われる。

家に戻って、北海道から届いたやきとりを2本食べて、
ウーロン茶を飲んで、就寝。

うれしかったことを書くノート

「友達が、誕生日にお母さんからノートをもらって、
 そこには嬉しかった事だけを書きなさい、
 といわれたそうです。素敵だなって思いました。」

これは、大宮エリーさんの、ムービー一眼blogの、
初日に書かれていた文章の一節です。

とてもいいなぁ、と思いました。
僕も同じようなことを考えていたときで。

うれしいことって、たったひとつ思い出すだけで、
こころの全体が満たされるように感じます。
あれもこれもと探さなくてよくて、
なにかひとつ確かに思い浮かべられたら、
もうそれだけで、
こころがあたたかくなる気がします。

なにか気分がぱっとしないときや、
嫌なことが重なったり、落ちつかないとき、
そんなときは、なかなか難しいかもしれません。
でも、ちょっと、視点を高くしてみて、
どんなに小さくてもいいから、
うれしいことを思い出してみる、感じてみる。

そのタイミングで、抱えていた悩みと向き合ってみると、
素直にものごとが見えてくるのではないかなぁ。

*

先日、euphoriaの新しいアルバム"fluidify"の、
パッケージ版をリリースしました。このパッケージは、
「O-CHECK DESIGN GRAPHICS」との
コラボレーションによる、ノートがセットになっています。

http://shop.euphoria-sound.com/?pid=21486313

CDを取り出すと、
ポケット付きノートとして使用可能です。
用紙は、当初、横軸だったのですが、
僕は方眼が書きやすくて好きなので、
こだわらせてもらって、方眼仕様になっています。

購入してくださったみなさんは、
どんな使い方をされているのかなぁ。

そうそう、僕は、
嬉しかったことを書くノートとして使っているのです。

a little piece of a little peace

荷物の発送で、郵便局とヤマト運輸へ。
どちらの受付の方も、とても親切な対応。
自然な笑顔、あたたかな言葉遣い。

こういうことって、
ほんのちょっとしたことなのかもしれないけど、
僕は、なんだか、あたたかみのある気分で
そのあとの時間を過ごせました。

日本の先行きがどうの、これからの政治がどうの、
もちろん、そういった大きなことを
僕たちが考えていくことは、大切なことです。

でも、自分の日常の中で、
身の回りに広がっている、ほんの細かなことたちを、
少していねいにしてみたり、相手のことを思ってみたり、
そういったところから生まれてくる感覚ほど、
確かな存在はないのでは、と思うのです。

そのときは、少し緊張する

大好きな木がある。

それは川沿いの道に、
堂々と、しかし、優しく佇んでいる。

まわりの木よりもずっと背が高くて、
でも、ほっそりとしていて、風になびく。

鳥たちも、その木にたくさん集まってくる。

駅からの帰り道からは、ちょっと遠回りだけど、
いつもその木を眺めてから家に戻る。

時には、近づいて、そっと触れてみることもある。
そのときは、少し緊張する。

日常のなかで、こころが慌ただしくなったときには、
この木のことを思い浮かべる。

大好きな木の、天辺からはどんな風景が見えるのだろう。

そして、新しく歳を重ねた今日、
いつもよりもさらにゆったりと、
大好きな木の側で時間を過ごしてきました。

思っていても伝えられないこと

帰り道、いつもとは違う、
見知らぬ道を選んで進むと、
見知らぬラーメン屋さんがありました。

魚介系のおいしそうな香りに誘われて、
するするとお店に引き込まれる。
ラーメン屋さんにしては、わりと広い店内ですが、
時間帯もあってか、お客さんは僕ひとり。

食券を買うと、ひとりで切り盛りしている店長さんが、
わざわざこちらに歩み寄ってきてくれて、
いらっしゃいませ、と受け取ってくれた。

お味の方はというと、
魚介系だけど、あっさりしすぎない感じで、
とても僕好みでした。

「ごちそうさま」のことばですら、
ちょっとはずかしくて、
小さな声になってしまう僕ですが、
今日のラーメンはとても美味しかったし、
それなのにお客が少ないことが、寂しくもあり、
自然と「とてもおいしかったです」、
ということばが出てきた。

それまで、やや曇りがちだった店長さんの表情は、
一瞬でぱっと、明るくなって、満面の笑みで、
「ありがとうございました」と伝えてくれた。
僕も笑顔で再びお辞儀をして、お店を出る。

帰り道、自転車に乗っているときも、
店長さんとの、ほんの一瞬の、
あたたかい会話が残り続けて、
おいしいラーメンの味が、さらにおいしく広がってきた。

思っていても伝えられないことって、たくさんあります。

でも今回は、
「おいしかったです」のひとことが伝えられて、
あー、よかったなぁ、と感じました。

こころが動いた記憶

お気に入りの小説や映画の多くは、
意外とそのストーリーが、
思い出せないものが多かったりします。

でも、その話を読んでいたときに、
こころがぐわっとなったことや、
恐怖心がものすごく広がったこと、
あたたかい気持ちになったこと、
そんな感覚はいつまでも残っているような気がする。

なにがどうなって、誰がどうなって、という情報は、
時間が経つとすっかり忘れてしまうことが多いけど、
自分のこころが動いた記憶というのは、
色濃く、残り続けるのではないかな。

だから、
自分自身のこころが動く瞬間を大切にしたいと思う。
そして、その動いた記憶を、他の誰かと共有できたら、
ほんとうにしあわせなことだと思う。

そんなことを思いながら、
音楽をつくっていけたらいいなぁ。

奏でた音の捉え方

ギター練習とピアノ練習を終えたところ。

その2つは、音を奏でる動作が全く違うけど、
片方が上達すると、それに伴い、
もう片方も、上達してくるから不思議。

それはきっと、
「聴く力」のレベルアップなのでは。

演奏するときには、
どうやって弾くかよりも、
どうやって音を聴くかが、
とても重要だと思うのです。

自分が奏でた音の捉え方、
その質が向上することで、
演奏力は大きく飛躍するようです。

村上春樹と一日の終わりについて

「どれくらいハッピーな気持ちでゴールインできるか?
 これが一番大事なことなのだ。」

これは村上春樹がだいぶ昔のBRUTUSで語っていたこと。
ここでは走ることに対する考え方として語られていたのですが、
それは当然のことながら、小説執筆にも影響をしてくるという。

僕も、普段、ランニングをして体調を整えていて、
そのときにタイムうんぬんというよりも、
走り終えたときの気持ちの持ち方を大切にしています。

でも、走ること以外の面で、
この村上春樹のことばが、
すっと浮かび上がってくることが多いです。

たとえば、それは、一日の終わりを迎える、そのとき。

朝に気持ちよく目覚めるためには、
眠りにつく時間帯の問題よりも、
その日過ごした時間に対して、
いかに、肯定的な思いを抱けるか、
ということが大切なことなのではないかなぁ。

もちろん、眠りにつくときに、
どんよりとした気持ちにその日全体を
覆われてしまうこともあるけれど、
俯瞰的に眺めることができる日には、
よかったなぁと思えた瞬間も、いくつか隠されていて。

そうして迎えた朝というのは、
たとえ、睡眠時間がそれほど十分でなくても、
起きようと思った時間に、
すっきりと目覚めることができるのです。
睡眠の質がよくなるということなのかなぁ。

*

で、こんな文章をなぜ、今日書いているのかというと、
今朝の目覚めがとても心地よかったから。
3時間ほどの睡眠だったのにも関わらず。

iPhoneアプリのsleep cycleで、
睡眠状態を大まかに確認できるのが便利なのですが、
いつもは、不規則なグラフになることが多くて、
あまり眠れてないのかな、なんて思うことがしばしば。

ところが、今朝は、
なんともみごとな90分周期。
こんなことは、はじめてで。
それがうれしくて書いてしまったvoiceでした(笑)。


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暗やみの存在に気づけたら

日が沈みかけたころ、
自転車の壊れたライトを付け替えていた。
ごくごくシンプルに
取り付けられる構造のはずなのに、
手元が暗くてなかなか付けられない。
慌ただしくなるこころと、少々の苛立ち。

結局、翌日の朝、取り付けてみたら、
さらっと、ものの数秒で作業が完了したのです。

こういう状況って、実際の作業以外においても、
日常で、よく起こることだよなぁと思います。

体調だったり、気分的なものだったり、
自分の調子がよろしくないときに限って、
あれこれ考え事は膨らみ続けて、
ますます、どんよりした気持ちになる。

それはきっと、暗やみの存在に気づいていないから。

暗やみにいるときには、
こころ静かにいられるように。
明るくなってきたら、
ものの数秒で完了することも数多いのだから。

想像以上のスピードで

これまでずっと購読してきた新聞を
4月から解約しました。

不便になるかな、物足りなくなるかなと、
さんざん悩んだ末の解約だったのですが、
実際、過ごしてみると、無いならないで、
なんとかなるものなんだなぁ、と。
情報はいたるところに広がっていることを
改めて実感しました。

むしろ、部屋に積み重なっていた新聞のスペースが、
解放されたことのスッキリ感に、
少しだけ心地よくなってしまったり。

小さい頃から、自分の日常の一部として、
どっしりと存在していたものが、
少しずつ姿を変えていく。

本に関しては、どんなに電子化が進んでも、
僕はきっとモノとして読みたい派だなと、
わりと強く思い込んでいたのですが、
その思いが99%くらいだったものから
80%くらいまで動いてきている。
たとえば、僕は本を読んで気になったところを、
あとからmacに打ち込んでいるのですが、
その作業がコピーペーストで、
完了してしまう便利さを想像したり。

思えばCDに対してだって、つい2〜3年前までは、
本と同じような思いを抱いていたことを思うと、
こういった変化は、想像以上のスピードで
動き続けているのかもしれないなぁ。
(もちろん今でもCDは大切な存在だけど)

ぼんやりしているとipadのことが
頭のなかをぐるぐると回り始める、今日この頃です。

変わらぬ場所、変わらぬよろこび

お花見をしてきました。

一年前と同じ場所で、同じ時間を過ごす。
変わらぬ場所で変わらぬよろこびを感じること。
これまでに過ごしてきたさまざまな時間が、
とても味わい深いものに感じたり。

そして、一年先の自分に思いを馳せる。

こどもツイッター

母の友という月刊誌、
読み応えがあって、おもしろいです。

"幼い子を持つおかあさん、おとうさんに。
子どもにかかわるすべての人に。"

僕はまったく該当しないけれど、
だからこそ、読み応えがあるのかも。

2009 9月号の特集は、
「だから子どもの言葉はおもしろい」。
読者投稿ページ「こどものひろば」の連載がはじまって、
50周年を記念した特集。

この連載は、子どもと大人の二人三脚で成り立っていて、
子どもがつぶやいたことを、一度、腹の中に入れて、
そこからお母さんが文字に表現する。
そのときに自分で修飾したり何かせずに、
できるだけ子どもの思いに添って、正確に書く。

たとえば、

「ゆうがた」
おとうちゃん またきたん よくくるねぇ
(1972年2月号 まつもとけんじ 2歳)

というつぶやき。
切ないのに可笑しい。
高度成長時代の家庭がリアルに見えてきたり。

「おすもうさん」
おすもうさん かいしゃ いくの? はだかになって いくの?
(1982年2月号 たにぐちあい 2歳)

思わずにやにやしてしまうなぁ。
なんてやわらかい発想なのでしょう。

*

もし、小さな子どもがツイッターをしたら、
どんなにおもしろいでしょう、なんてことを考えました。
それに比べて、大人のつぶやきなんぞ見てもねぇ、
と思ってしまったり。

そんなこといっておきながら、、、
最近、僕もtwitterアカウントを作ってしまいました。
mixiは、なんだか妙な感じがして、
結局、利用しなかったのですが、
(ちゃんと分かればとても便利だったのかと思います)
twitterは、なんだか興味を惹かれておりまして。

子どもツイッターには到底かないませんが(笑)、
コツコツ利用いていけたらと思っていますので、
よろしければ、これからは

http://twitter.com/organicstereo

もよろしくおねがいします〜。

こんな寒くて雨の日に

自転車泥棒。家の前から堂々と。
こんな寒くて雨の日に、
いったいどこに行きたかったんだろう。

出かけるとき、
時間の余裕があったからよかったけれど、
まったく、いい迷惑だなぁ。

ちなみに、14年目の自転車なのです。

盗難届けをすぐに出さないと。

そわそわする感じ

これまでに多くのライブを経験してきていても、
いまだに、ライブの前日は、
そわそわする感じがあります。

たしかに、初期のころのライブ前とは、
その、そわそわの大きさは違うけど、
それでも、やはり、
今日は、そわそわしながら過ごしている。

それがひどいときには、
体調を崩してしまうこともあるのですが、
そうならないためにも、
意識的に健全な過ごし方をこころがける。

そのためには、しっかりとした食事を食べないと、
と思って、出かけた帰りに、食材の買い出し。

ほうれん草とたまねぎともやしと豚肉を買って来て、
あたたかなスープをこれから作りはじめます。

きっと、よいライブができたらと思っています。

そんなこんなで、
明日のライブは代々木ザーザズーにて、
オープン5周年記念のイベント初日。
unkie、nacano、との3マンです。
euphoriaの演奏は、19:55頃からの予定。
演奏時間たっぷりです。
よろしければ、ぜひぜひ〜。

冬にいるつもりの自分

スタジオを出ると、
春がすぐ側までやってきたような、
ぽかぽか陽気が広がっている。
帰り道、車の窓を大きくあけてみる。

このときの不思議で心地よい風の感触。
それは、まだ冬にいるつもりの自分が、
なにかあたらしいものに触れた、よろこび。


今日は、明後日2/25の、
nestでのライブに向けての
スタジオリハがありました。
2/5にアルバムをリリースしてから、
はじめてとなるライブです。

euphoriaの演奏を、今回初めて観る方も
きっとたくさんいるだろうな、
ということも頭の片隅に置きながら、
いつもに増して、意気込みたっぷりな
リハを終えました。

今回のイベント、"exPoP!!!!!"は、
入場無料、ドリンク代のみでたのしめる形式です。
お仕事帰りにでも、ふらっと、
ぜひぜひ、観にいらしてください〜。

euphoriaの演奏は21:15からの演奏を予定しています。
イベントの詳細は、gig infoページをご覧ください。


おばあちゃんのFAX

おばあちゃんがいたころの話。

僕:これでFAX送れたからね〜。
祖母:あんれー、紙が戻ってきちゃったじゃない。

データとして送られる、
という概念が分からないために、
紙そのものが、相手の家のFAXに
届くと思っていたおばあちゃん。
その場で大笑いした僕とおばあちゃんですが、
まだ半信半疑の様子でした。

そんな出来事が以前にあったのですが、
それとちょっと似たような感覚が自分にも。

*

先日、自分自身の、
長いスパンでのこれから先の予定を考える際に、
ひとまず、今、自分の頭の中にあるすべてのことを
すべて紙に書き出す作業をしていました。
するべきことからやりたいことなど、
規模の大小かまわず、ひたすら書き出す作業。
4時間くらいかけて、もうすべて出し切ったぞ〜、
と200項目ほど書き上げました。

結構大変な作業なのですが、
これをした後の爽快感はそうとうなものです。

そして、そのひとつひとつをmacに入力して、
最終的にはその膨大な量の項目を
iPhoneに移行し終えました。

この中に、今現在の自分が、
考えたことのすべてが収まっている、
そう思うと、なんだか、うれしくなって、
こころにゆとりが生まれてきました。

それと同時に、iPhoneに重さを感じたのです。

当然、データなのですから、
そんなはずはないのだけれど、
作業の達成感と、自分の念のようなものが大きくて、
そう感じてしまったのかもしれません。

これって、おばあちゃんのFAXと似ているなぁ、と。

*

僕の世代は、かろうじて、
「もの」そのものに触れながら、
成長してきたと思います。
だから、iPhoneの重さみたいなものを、
おかしな話だと思いながらも、想像することができます。

でも、少し先の、未来の子どもたちは、
今以上に、もっともっとデータ主体の
生き方になっていくのかなと思うと、
僕とおばあちゃんのやりとりと同じようなことが、
また起きるのかもなぁ、なんて思いました。

「おばあちゃんのFAX」というように
「おじいちゃんの〜」というブログを、
僕の孫が書いるところを想像してみたり。

いつもの、このパターン

オリンピックが始まる前は、
ニュースなどを観ながら、
盛り上がり過ぎだよなぁ、なんて思うのですが、
いざ始まってみると、のめりこんでしまう、
いつもの、このパターン。

ものすごくハードな練習や、
想像すらできないプレッシャーの大きさに、
日々耐えながら、過ごした4年間が、
この30秒間に詰め込まれていると思うと、
テレビ越しで観ているのに、
なんだか、胸がざわざわしてきて、
立ち上がりながら応援した、
女子モーグルの決勝。

メダルがどうのこうのというよりも、
なんだか、じわじわと響くものがあって。

そして、上村選手のインタビュー。
とても礼儀正しい受け答えのなかで、
ときおりにじみでる
子どものような素直な表情を見ながら、
じーんと、こころが熱くなりました。

たのしい部分へ

Ustreamで坂本龍一と津田大介の対談を見る。
http://www.ustream.tv/recorded/4687750


デジタル技術がものすごい早さで発展している現在。
その中での音楽のあり方についてを考えるときに、
この二人の存在は、僕の中で以前から大きくて。

昨年、「ユリイカ09年4月臨時増刊号 総特集=坂本龍一」で、
津田さんが記事を寄せていたのもおもしろかったけれど、
こうしてはじめて、対談という形で、しかも、映像で、
おまけにリアルタイムという形で見れたことに、
うれしいおどろき。

内容は、デジタル配信、著作権、twitter、
などなどを起点に、とても興味深いものでした。

*

こうして、次々に新しい技術が進展していくなかで、
音楽の伝わり方もどんどんと変化してきていて、
その速度は、さらに加速していくのでは、
と多くの方が感じていると思います。

そんななかで、いかに、
”音楽が持つ大きな力”を、
深く見続けていくことができるか。


ミュージシャンもレコード会社もリスナーも、
音楽に関わるすべての人の意識や考え方が、
影響を与えあうことのできる今の時代。

この先の予測がまったくもって出来ない状況では、
僕自身、ちょっと気を抜くと、
悪い面ばかりに意識が向いてしまうときがあります。

でも、出来る限り、たのしい部分へ
意識を注いでいけたらと思っています。

目の前のことをたのしもうとしないと、
行き先がどうであれ、もったいないなぁと思うのです。

期末試験前のメロディー

学校でテストに備えて、
徹夜するくらいの勢いで、
勉強をしているときに限って、
勉強以外のことで、
ものすごいひらめきが湧いてきてしまう、
不思議な感覚があります。

僕が学生だった時も、期末試験の頃に、
いいメロディーが沢山浮かんできた記憶があって、
よりによって、テスト前に、
完成してしまった曲も数多い。

今は、テストがあるわけではないけれど、
昨年、euphoriaのアルバム制作の締め切りに、
ひやひやしながら、
バタバタと過ごしていてたときは、
どうやら、期末試験前の雰囲気にも似ていたようで、
やはり、いい感じのメロディーが、
次々に生まれてきていました。

そのひとつひとつを聴きなおしています。
中には、これ誰の曲?と思えるくらいに、
新鮮な響きを見つけては、にやにやしながら、
ひととおり、整理をしている、今日この頃。

食生活をていねいに

アルバムの制作が完了して、
マスタリングを終えた直後は、
いつも、大きな開放感に包まれていたけれど、
今回は、少し違う感じがしていました。

確かに、ほっとした気持ちにはなったけれど、
まだ、なにか、重さのようなものが残っていて。

それが、5日の"fluidify" launch partyに対する、
緊張感だったようで、
無事、イベントを開催できて、やっと、
肩の荷が降りたといいますか、
久々に、らくーな、気持ちになっています。

*

日曜日、午後の日差しが心地よかったので、
川沿いの道を、久々、散歩にでかけると、

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きれいな梅の花が咲きはじめていました。
梅の花には、よい思い出が詰まっていて、
道ばたで出会うと、ついつい、
長いこと、足を止めてしまう。

*

夕食は、鶏つくねのお鍋。
この季節、身体もこころもあたたまります。
今年初めての春菊が、とても美味でした。
ケンタロウのレシピにハズレなし。

制作などで、バタバタしてくると、
どうしても、食事がおろそかになってしまいます。
ひどいときは、食べることを忘れてしまったり。

でも、こうして、おいしいものを食べると、
自然と元気な、豊かな、気持ちがわいてきて、
ゆとりまでも生まれてきそうです。

だから、これからは、
忙しいから、食生活が雑になってしまうのではなく、
食生活が雑だから、忙しくなってくる、
そんなふうに考えられたらいいなぁ、と思ったのでした。

"fluidify" 制作の記録

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この3つのスピーカーと、


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この2つのヘッドホンを頼りに、
"fluidify"の音を作ってきました。



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少し疲れたら、このコースターに、
挽きたてのコーヒーをのせて、
しばし休憩。



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そして、作業に煮詰まると、
部屋の窓から夕暮れを眺めたり。



そんな日々の繰り返しで完成した、
euphoriaの"fluidify"、
euphoria official web siteにて、
2/5、0時から、配信開始です。
どうぞおたのしみにされていてくださいね。

そして、リリース当日に開催する、
2/5の記念ライブ、3人の意気込みも十分。
この日にしか表現できない音を
大切に奏でたいと思っています。
ぜひ、足を運んでいただけたらうれしいです!


ライブ詳細は http://euphoria-sound.com/giginfo.htmlをご覧ください。


にじみ出るもの

6:30に目が覚めて、シャワーに入って、
タオルを干すため、ベランダに出ると、
少し暖かな南風が、肌に触れて、
春が少しずつ近づいて来ていることを感じました。

ということは、もうすぐ、さくらのうたが、
増えてくる頃だなぁ、と。

以前、voiceページに「6月に ” December ”」
という文章を書きました。

さくらだったり、卒業式、クリスマス、夏の海など、
そのタイミングに合わせて、CDが発売される。
確かに、その時期にぴったりの曲は、
何割も増して気持ちよく響きます。
だから、そういったタイミングでのリリースは、
とても理にかなっているわけですが、
そのリリースに合わせるためには、
さまざまな制作プロセスと、
そしてプロモーション期間が必要で、
最も大切であろう、曲作りのタイミングは、
その季節よりも、だいたい、
3〜4ヶ月以上も前になってしまうという内容。

それが、デジタル技術の発達による、
配信を用いた楽曲公開という形態で、
どう変わっていくのでしょう。

*

別に、その季節にいなくても、
想像すれば、メロディーは浮かぶよ、という考えもある。
実際はそれで、たくさんの名曲が生まれてきているわけで。
でも、そういった音楽と、
今の季節を過ごす中で、
思わず生まれてきてしまった音楽とでは、
大きく意味合いが変わってくるよなぁ、と。

あとは、だいぶ待って、
ちょうど1年後にリリースという考えもあるかもですが、
当然、1年前のサクラと今年のサクラは違うものであるわけで。


「思わず生まれてきてしまったもの」、それを僕は、
「にじみ出たもの」として考えることがあるのですが、
その、「にじみ出たもの」が持つ表現力に、
大きな可能性を感じています。

明確でわかりやすいメッセージのあるものは、
確かに、広く伝わりやすいものです。
でも、音楽という表現を用いるのであれば、
(もちろん、絵画や文学、映像などもそうですが)、
作り手から、にじみ出てくるような、
そんな、もっと根源的な思いが、
色濃く存在していてもおもしろいと思いますし、
それを受け取る側も、表面上だけではなく、
自分のこころの奥のほうと共鳴するような、
そんな感覚があっても、すてきだなぁ、と思うのです。

なにより僕自身、そういった作品にめっぽう弱いというか、
居ても立ってもいられなくなる程に感動して、
そこから、新しい日々の時間が動き出す、
という感覚をこれまでに何度も味わってきています。
だから「にじみ出るもの」に対して、
強い思い入れがあるのだと思います。

*

でも、そういった表現は、
とても小さな存在であったり、
ある意味、脆いものでもあって。

だから、たとえば、
チャートを賑わすためにはとか、
売上をどーんと延ばすためにはとか、
いかに大多数の人に届けるかということを、
最優先にしていくと、見えなくなってくる部分や、
隠さざるを得ない部分がどうしても出てくる。

そんな考え方に左右されず、
「にじみ出るもの」を大切にし続けようという思いが、
今、急速に発達を続けている情報技術によって、
もっとひらかれたものになっていくかもしれない。

そう考えると、冷たいイメージが先行する、
情報社会というものにも、
まだまだ気づかされていない、あたたかさが、
きっと存在しているのでは、という、
ほくほくした気持ちにもなるのです。

無意識と自我の混ざりあい

あけましておめでとうございます。

2010年スタートのタイミングで、
euphoriaのアー写を新しくしました。

今回、撮影するときに決めていたことは、
話しているところを撮るということでした。
撮影してくれたのは、
euphoriaの親しい友人のケンジくん。
僕たちとケンジくん、その4人の、
なごやかなムードから生まれた瞬間の写真です。

自分の写っている写真というものを、
僕はあまり持っていません。
まして、笑っている表情の写真なんて、
幼稚園くらいのとき以来かも。

この表情、なんというか、
自分の知らない顔だなぁと。
そのときの雰囲気から、自然と溢れ出したもの。

いくつか撮った写真のなかで、
「この森川の表情がベスト」と、
きのしたが強く言うものだから、
「あー、そうなんだぁ」
と思って、この写真にしました。

この表情が評判よろしいのであれば、
この表情に見合った行動ができたらいいなぁと。

無意識と自我の混ざりあい。

これも「液体になる」ということなのかも。


2010年、「液体になる」ということばが、
ここで、数多く登場するかと思いますが、
「あー、また言ってるよ」という感じで、
ひやかし半分、読んでいただけたらと思います。

今年もどうぞよろしくおねがいします!


大掃除どうしましょ

年末の大掃除は1日で済ませたい、
そう思う若者が多いという調査結果を新聞で読む。

作業部屋などは、ちょくちょく掃除しているけれど、
家全体の掃除は、あまり手が付けられていなくて、
窓磨きなども、大掃除待ちという、僕の現状。

今は、euphoriaの新作の仕上げ制作作業や、
その他のいろいろな作業が積み重なっているので、
ほかのことに手が回らないのですが、
ひとつひとつの時間を大切に、
年末までには、ひととおり、かたちにできたらと模索中。

年末1日、ばたばた大掃除という流れではなくて、
せめて2〜3日かけて、
大掃除に加えて、2009年をゆったり振り返る時間を
作れたらいいなと思っています、今日このごろ。

辿り着けない部分

ちょっと前にiphoneを使うようになって、
うわさ通りというかなんというか、
ほんとうに便利だなぁ、と思っている今日この頃。

スケジュールの管理や、
メモがさっと書けて、そして、
きれいに分類できるようなアプリも多くあって、
手帳から完全に移行できてしまうなぁ、とも思ったのですが、、

いろいろ考えた結果、紙の手帳は、持ち続けたいなぁと。

先月、euphoria3人で、新しいアルバムのタイトルや
コンセプトを考えるミーティングの機会が、多くありました。
そのとき、自分は普段、なにを考えていたのかを振り返るために、
手帳を読み返しながら、僕はミーティングしていました。
昨年のものと、2冊並べて、読み返してみたり。

そのときの、紙をぺらぺらめくる感触だったり、
丁寧だったり急いでいたり、を感じさせる筆跡から、
それをメモしたときの感情を思い出したり。
そんな感覚をひっくるめて、自分自身の考えが、
しっくりとまとまってきたのです。

デジタル技術がいかに進んでも、
辿り着けない部分というものも、あるんだよなぁ、と思ったり。

というわけで、
手帳が取り出せないときのみ、iphoneに記録、
それも、あとから手帳に移して、
最終的に、日々のメモは、
紙の手帳にすべてまとめるというスタイルでいこうと決めました。

こころからありがとうを言えるかどうか

euphoria、4枚目となるフルアルバム、
"fluidify"、2010年2月5日にリリースします。

CDよりも高音質である、24bit48khzという形式で、
アルバム全曲を、全世界同時に、無料配信します。

今回のリリース形態について、
そのアイディアが出てきたのが、2008年の秋頃、
それから、さまざまな角度から、繰り返し考え、
ときには、頭が痛くてふらふらしてしまうくらいに、
悩んでいた時期を過ごしながら、辿り着いた結果です。

というのも、僕自身、
CDというモノが、とても好きで。
学生の頃には、あれこれ選び抜いたCDたちに、
小遣いのほとんどをあてていました。
そして、中学生で、作曲を始めたときから、
CD屋さんに、自分のCDが並ぶことがひとつの夢でした。

今でも、ほんとうにいいと思う音楽は、CDで買っているし、
昔から繰りかえし聴いているCDは、
ジャケットもボロボロだけど、
今も大切に持って、聴き続けている。

そして、今もなお、CDの可能性を大切にして、
活動を続けているアーティストは、すばらしいと思っています。

決して、CDという媒体の価値がなくなったと、
そんなことは、まったく思っていません。

ただ、僕自身が、euphoriaの音楽を通して、
なにを一番伝えたいのか、といった部分を、
多くの固定概念にとらわれず、
ぎりぎりまで、突き詰めていく末に、
ふっと見えてきたものがあったのです。

このことに関しては、いろいろな内容があって、
だいぶ長くなってしまうので、
随時、文章にしていけたら思っています。

*

今回、ここで、書きたかったことがひとつあって。

音源を配信するスタイルを考えるなかで、
デジタル技術、インターネットの急速な発達というものに、
否が応にも、関心を向けざるを得ませんでした。
情報化社会の発展により生まれる、メリット、デメリット。
あんなことや、こんなことも可能になるのかぁ、という、
希望とも恐怖ともとれる、そんな感覚。

そういったことをあれこれ考えている時期に、
僕がよく行く、珈琲屋さんに行ったときのこと。
注文を受けてくれている、スタッフの女の子の対応が、
とてもていねいで、かつ、柔らかくて、
そして、「ありがとうございます」という言葉が、
なんというか、とてもこころに響いたのです。
さまざま疲れが溜まっていたときだから、
何割増かで響いたということもあるかもですが。

それから、その帰り道。
車で細い道を運転しているときに、
対向車が来たので、僕が少し窪んだところで、
待機していたとき、すれ違いざまに、
対向車のおじさんがていねいなお辞儀をしてくれて、
声は聞こえなくても、「ありがとう」が、
すぅーっと伝わって来て。

そういった、「ありがとう」たちによって、
僕は、なにものにもかえがたい、
どっぷりとみたされた気持ちになったのです。


これから、どのように、
さまざまな技術が発展していくか、
そしてそれに伴い、
世の中がどのように動いていくか、
それは、誰も、予想ができないことです。

でも、「こころからのありがとう」を言えるということ、
そして、それを感じて、受け止めることができるという、
何ものにも代えることのできない、その価値は、
人が生きていくうえで、いつまでも輝き続けるのだと、
そんなことを思ったのでした。

500通りの帰り道

髪がぼさぼさになってきたので、
午前中、ひさびさの美容院へ。

ここ最近は、12/4の"点と展vol.2"に向けたリハと、
きのした宅と事務所でのミーティングをのぞいては、
あまり、部屋から出ることなく、
euphoriaのアルバム制作をしているので、
美容院へと向かう道のりは、心地よい息抜き。

電車の車窓には、
この季節独特の、透き通るような空気があって、
そこを通過する冬の日差しがまぶしかった。
この光景は、僕のとても好きなもののひとつ。

気分が心地よくなって、
そんなとき、ふと思い浮かんだことがあって。

こうして美容院に行くのは、あと何回あるのだろう。

だいたいひと月に1度、もう少し間隔が開くときもあるから、
年に10回と計算して。仮に、80歳まで生きられるとすると、
合計で500回ちょっと。

こんなことを今まで考えたことがなかったので、
無限にあるように感じていたことが、
このくらいの数字に収まるんだなぁと。

美容院でのんびりできてさっぱりできる感覚が
僕は好きで、だから、そこに向かう時間や、
帰り道の時間(寄り道が多くなったり)も、
いつもより、だいぶ、のびのびとした気持ちになります。

そういった気持ちを、あと、500通り、
存分に楽しめたらいいなぁ、と思いました。

おじいさんになったら、近所の床屋さんかな。
それでも、そのお散歩の時間がきっと特別なものに。

100%は平和ではない

euphoriaの新しいアルバムの
タイトルを考えるためのミーティング。
過去最高に、たっぷりと時間を費やしています。
そして、とても充実した時間。

僕たちのミーティングでは、
「まだ60%くらいしかまとまっていないんだけど」、
という段階で、話はじめることが多い。
その残りの40%をみんなで考える、
そして、辿り着くところは、結局、
もともとの100%とは、
違うところになることがほとんど。

でも、その40%を埋めようとするなかで、
ある瞬間、誰一人、思ってもいなかった
ひらめきが生まれるときがあって、
そのひらめきは、いつも決まって、
とても強度のあるものになるのです。


自分が100%の言いたいことを、
相手が100%受け入れるということは、
ぱっと考えると、平和なことに思えるけれど、
実際、それは、とても恐ろしい出来事。

「自分の考えは間違っているかもしれないけれど」、
という前提を持った人同士が、すすめる会話は、
のびのびとしていて、心地よい。

音とどう向き合うか

東京芸大の大学院修士課程1年生展を見に取出キャンパスまで。
大学時代の友人の発表を見るために。

彼とは、大学のときから、共感する部分が多くて、
ゼミが同じだったこともあり、
お互いの作品を聴きあったりして、
一緒に過ごす時間が多かったのです。

大学のときから、彼の作品は、非常に研ぎすまされていて、
そして、自身の音楽に向き合うまっすぐな姿勢に、
たくさんのよい刺激を与えてもらっています。

身体センサーからの信号入力をmax/mspでプログラミング、
その結果を、4スピーカーで出力するという実技発表は、
とても興味深い研究内容で、見入ってしまったし、
常設展示されていた、8つのスピーカーを用いた、
音響作品も、非常に繊細でありながら、
こころにせまってくるような強い躍動感があり、素晴らしかった。

なんというか、ものすごく几帳面に、
細部にわたって意識を巡らす、
その徹底した感覚は、ある種、
病的な雰囲気まで漂うのですが、
それでいて、まったく淀んだ感じを受けることがなく、
しっかりと外側にひらかれた世界観を感じさせてくれるのは、
ほんとうにすごいことだよなぁ、と感じました。

僕自身の音との向き合い方が、
まだまだ甘いなぁ、と感じるのと同時に、
もっと深く、ていねいに、音を扱っていきたいなぁと、
そんな気持ちになりました。

取出キャンパスは、だいぶ遠かったけれど、
足を運んでよかったなぁと思った、そんな一日。

汚れが気になって

夕方、euphoriaのアルバム制作作業の息抜きで、ミスドへ行く。

レジの横下のスペースに
ポンデライオンのぬいぐるみがあって、
それが、けっこう汚れていて、どうしてだろう、
と思って、ぼんやりと眺めていると。

実際、そこを通りかかる小さなこどもたちのほとんどは、
そこで、立ち止まって、頭を撫でたり、抱え込んだり、
必ずといっていいほど、触れていくのです。
あと、おもしろかったのが、
自分の座る椅子の方に、ポンデライオンの顔が向くように、
方向を変えているこどもがいたこと。
ポンデライオンのリングの部分をとって、自分がかぶってみて、
お母さんを笑わせるこどもも。

きっと、あのぬいぐるみには、
強烈にこどもを引き込む魅力があるようです。
かわいいキャラクター、ふわふわとした質感、
小さなこどもが、なんとか抱え込める大きさ、
リングがはずれることで実際に触れてみたくなる、などなど、
そんな心遣いがあるんだなぁと。

今まで、全く気づくことのなかったことだけど、
「なんか汚れてるなぁ」という思いから、
ひろがったいくつかの発見。

ないからある

80GBのipodを購入したときは、
これだけの容量があれば、
持ち歩く分には全く困らないだろうな、
と思っていたけれど、
スペースがあればあるほど、使いたくなるもので、
もういっぱいいっぱいになってしまった。

最近新しくなった、
薄さそのままで160GBというipodに、興味があったのですが、
こないだ、タンスの衣替えをしているときに、
ipodの中身も季節に合わせて衣替え案を思いつきました。

少し肌寒くなってきた街並みを、
マフラーをしながら、白い息を吐きながら、
というような想像から曲を選んでいく感覚。
これがなかなかおもしろい。

あと、最近、ipodの外側を覆うケースが壊れてしまい、
新しいものを探していましたが、
なにも装着しない、むき出しのままのスマートさもいいなぁと思い、
そして、なにより、今まで以上に、
大切に扱っていることに気づきました。
直に触れることで、その質感から伝わる愛着が膨らんだり。


容量が少ないからこそ、生まれたipod中身の衣替え、という発想。
ケースをはずしたことで、生まれた、愛着感。

「ないからある」、ということに敏感になれたらいいなぁ。

ルラ大統領の涙

2016年のオリンピックが
リオデジャネイロに決まったというニュース。

それほど熱心に向き合っていたわけではないけれど、
東京で開催になるのかどうか、
これまでに、いくつかのニュースや記事を読みながら、
その結果をたのしみにしていました。

ニュースなどでの取り上げ方の多くは、
東京で開催することでの経済効果は、何億円にもおよび、
というような方向で、国民の関心を集めていました。
それに加えて、エコ重視のオリンピックというアピールなど。

僕自身としは、自分が34歳になったとき、
どんな日々を送っているのかな、という思いから、
東京でのオリンピック開催をのんびり想像していました。

で、リオデジャネイロが決定して、
ブラジルのルラ大統領の涙をぬぐいながらの記者会見。
南米初のオリンピック開催という大きな大きな夢。


日本の向き合い方(国民それぞれの気持ち含む)との、
スケールの違いをどっしりと感じて、
日本落選うんぬんではなくて、
リオデジャネイロ開催に対して、
こころからおめでとう、という気持ちになりました。

そして、日本もスペインもアメリカも、
その他の国々も、2016年、南米初のオリンピックを、
盛り上げていけたらいいなぁ、と感じました。

そんな視点から、34歳の自分を再び思い浮かべてみたり。


十五夜、まんまるポテト

十五夜、まんまるの月を楽しみにしていたけれど、
あいにくの曇り空。

そのかわり、といえるのか分かりませんが、
家にたくさんあった北海道のじゃがいもを使って、
まんまるのフライドポテトを作ってみました。
じゃがいもの旨味をうまく生かせて、なかなかのお味。

さっぱりしたお酒と共に、
まんまるのフライドポテトを食べながら、
お月見気分を満喫した十五夜でした。

偶然の時間

夜9時からの打ち合わせで、
代官山に向かう。

電車に乗って、一駅過ぎた頃、
急遽、日付変更の連絡。
あらら、さてさてどうしようか。
そのまま折り返しても良いけれど。

そんなこんなで電車は進み、
乗り換え予定だった駅で、下車。
そこに、たまたまモスバーガーがあって、
ちょうどお腹も空いていて、のんびりと。
家の近くのモスが、近頃、
牛丼屋さんになってしまい、
だいぶご無沙汰の
海老カツバーガーとオニポテセット、
飲み物は白ぶどうスカッシュ。美味。

ぽん、と、たまたま時間ができたので、
明日からはじまる10月の予定を整理したり。

思いがけない展開や、偶然生まれた時間を
どれだけ楽しめるかで、日々の充実度は変化するのかも。

*

そうそう、
先日、10日間ほど、アメリカ旅行に行ってきました。
姉の結婚式で、カリフォルニア、
ほかに、ロサンゼルス、フィラデルフィア、ニューヨーク、と
ずいぶんゆったりとした旅行でした。

それまで、アメリカという国に対して、
それほどの興味はなかったのですが、
いやー、実際にあのスケールを目にすると、
とんでもなく興味深くて、おもしろくて、
新しい発見だらけの、貴重な時間を過ごしました。

これも、たまたま、
姉の結婚式という予定があったからこその、偶然生まれた時間。

自分でコントロールできることなんて、
ほんとうに微々たるもので、
そうではない、外側からやってくる出来事を、
素直に存分に楽しむことを
大切にしたいなぁと思っています。

沈黙と自由

たとえば、自分の考え方や生き方、そして音楽が、
どこにも「属さない」ような、
そんな自由な存在になればいいなぁと。

そう思うことは、一見、美しいように思えます。
でも、その思いが先行しすぎると、
「属さない」という考えを持つ人たちに、
「属してしまう」ということもありうるなぁと。

自由を求めようとするあまり、
自由はどんどん遠いところにいってしまう。

沈黙を見つめるということ。その大切さ。

実際のところはグラデーション

僕がまだ小さかった頃。

天気予報は、東京は曇り、埼玉は雨。
その境目を知りたかった。
自転車で走っていて、その境目で、
ぱっと雨が降り出す。
その境目に行けば、
身体半分は曇りで、もう半分は雨に濡れる。

天気のよい日に、ともだちと電話していて、
こっちは雨だよ、と聞いて、
そのともだちの街と想像している部分にだけ、
きっちりと雨が降っているイメージ。

雨と晴れがきっぱりと分かれているような景色があると思っていた。

でも、実際のところはグラデーション。

車のなかからの景色が、
田んぼから砂漠になることはありえない。
砂漠になる前のところに、次の兆しが存在する。

雨になりそうなときには、なにかしらの前兆がある。
晴れてくるときもそう。

その兆しに敏感でいたい。

好調なときと不調なとき。

今日をよく見ていると、明日が見える。
必ずそれは、今日の続きにある。


視点を車窓に向けてみよう

電車の車窓からは、まるで大きな大陸のような雲を
オレンジ色の夕焼けが、やわらかく照らしている。
そんな壮大な景色を知らず、
ほとんどの人は携帯電話とにらめっこ。

もちろん、今、このとき、
たまたま、僕は、車窓に視線を移していただけで、
僕も同じように、携帯メールをしているときに、
車窓には、きれいな虹が浮かんでいることもあっただろう。

音楽をつくるとき、または、
音楽以外にも、なにかを考えて、
形にしようと懸命になっているとき、
そのなかの一部分ばかりに意識を向けてしまい、
帰り道の電車で気づいた、この、車窓の存在を忘れるという、
同じような現象になっていることも多いのではないかな。

ほんの少し、視点を動かすだけで、
大きなヒントがあるのに、
目先の部分だけで、こねくりまわして、
こじんまりとした作品になってしまうことのないように。

視点を車窓に向けてみよう。

人が音楽をつくるんだ

先日ビデオで録画しておいた、
情熱大陸を夕食を食べながら見る。

ミュージシャン斉藤和義さんの特集。
斉藤さんの音楽は、ほとんど知らなかったのですが、
新聞に、曲作りや一人多重録音の風景が〜、と書いてあったので、
お、なんだかおもしろうだな、と思って、録画しておいたのです。

ライブの楽屋の様子や、山中湖のスタジオでの録音風景、
デビュー当時に暮らしていた、吉祥寺のお散歩風景、などなど。

そのどの場所においても、斉藤さんの行動は、
ゆったりと心地よくて、柔らかいけど芯がどっしりしていて、
そんな雰囲気に憧れてしまいました。

とてもゆっくり、落ち着いてる。でも、ちゃんと驚くし、ちゃんと笑う。
かっこいいなぁ。

番組内のナレーションでは、
曲作り、一人多重録音の映像を撮り続けて気づいたこととして、
「決して頑張りすぎない彼は、けれど、絶対、手を抜かない」
とありました。

うん、そうそう、まさに、と思った僕は、同時に、
今年の初め、僕自身のテーマとして考えた、
「急がず、しかし遅すぎもせずに、気持ちのいい速度で、歩いてゆく」
ということばを思い浮かべました。

まさに、そのことばの映像を、見たような気がしたのです。

斉藤和義さんのCDをじっくり聴いてみたくなりました。

*

そうそう、先日は、
「或る音楽」という音楽ドキュメンタリーを
ユーロスペースで観てきました。
高木正勝さんが「Tai Rei Tei Rio」という作品を
作り上げていく過程を描いたドキュメンタリーです。

なぜヒトは音楽を奏でるのか、という視点に、
興味を持って、観に行きました。
素朴な佇まいでありながら、広く、大きく、ものごとを捉える、
そんな高木さんの姿勢が、すばらしいなぁと、感じました。

*

音楽性も、人間性も、活動するフィールドも、まったく異なる、
斉藤和義さんと高木正勝さんですが、
どちらも、その人間性がそのまま音楽に
なっているような印象を受けました。

素晴らしい音楽家は、人としてほんとうにかっこいい、
いや、人としてほんとうにかっこいいからこそ、
素晴らしい音楽ができるんだなぁと、
そんなあたりまえのようなことを、感じています。

問題点の外側に改善点という気づき

euphoriaのレコーディングまで、あと一週間ほど。
いっこうに曲が完成しない、やや苦しい期間もありましたが、
ここにきて、めでたく、手応えのある曲たちが揃いました。

今は、前回のレコーディングの録り音を確認しながら、
今回のレコーディングのプランをあれこれ考えています。

*

そういえば、前回のレコーディングで、おもしろい発見をしました。

レコーディングで使っている部屋の特性か、ドラムキットの性質か、
ドラムのタムの音がどうしても引っ込んでしまうのです。
タムのチューニングをあれこれ試したり、タムの皮を変えてみたり、
そして、タム自体を他のものに変えてみたりと、
いろいろ試みたのですが、改善されず。

はてさて、どうしようか、
きのしたにタムを強めに叩いてもらうにしても、
それだけでは、限界があるしなぁ。

と考えていたときに、ぱっと、気がついて、
タムの音が小さいという考え方ではなくて、
他の太鼓(スネアやバスドラム)の音が、
大きいと考えればよいのでは、と思ったのです。

そして、スネアやバスドラムのミュートを強めて、
響き、音量を押さえてみると、
問題なく、タムの存在感が増してきたのでした。

この考え方は、ミックス作業にも多いに役立つはず。
たとえば、ギターの音が地味すぎるかな、と感じた時、
やみくもに、ギターの音ばかりトリートメントするのではなく、
実は、ドラムの音を派手に作りすぎていた、ということに気づくことで、
全体のバランスが気持ちよく揃ってくるのです。

*

euphoriaは結成当初から、ほとんどの制作過程を、
メンバー3人の手で行ってきています。
そのつど、さまざまな困難に出会うことはありますが、
今回のような、「問題点と思っていたその外側に、改善点がある」、
というような気づきは、
3人で、あれこれ知恵を振り絞ってすすめる作業を通して、
見えてきたものだと思います。

もしかしたら、僕たち以上に、専門的知識の豊富な方に、
力を借りていたら、これまでの制作にかけてきた、
膨大な時間は、大幅に削減されていたかもしれません。
でも、あーでもない、こーでもない、と試行錯誤を重ねるなかで、
自分たちのものにすることができた感覚は、
なにものにも代えがたい、たいへん貴重なものだと思うのです。

*

ちなみに、この、
「問題点と思っていたその外側に、改善点がある」、という意識は、
日常のなかでも、さまざま活かすことができるのでは?

自分自身の気に入らない部分や、苦手な部分。
そういったものがあると、ついつい、
そのポイントばかりに気持ちが向いてしまい、
どんどんと深みにはまっていく。
そんなとき、その対象から少しばかり離れてみると、
そのポイントには、それほど問題はなくて、
回りに存在しているものをほんの少し修正してみるだけで、
がらっと、見え方が変わってくることも、結構あるものです。

その他にも、たとえば、
他人の、こんなところが嫌なんだよな、
と思っているようなとき、ちょっと自分を変えてみるだけで、
実際のところ、なんの問題もなかったり。

*

そんなこんなで、来週のeuphoriaレコーディング、
また新たな学びをたのしみに、充実した時間にできたらと思っています。
毎回恒例の72時間スタジオ借り切りプランなので、
体調管理もしっかりして、臨もうと思います。

きのしたよーすけ、寝坊には、お気をつけて。

同時に起きていることを数えてみる

僕の耳はあまりタフではないようで、
ライブを観に行っては、しばしば耳鳴りに悩まされていました。

耳鳴りの原因は、大音量で高音域を強調した
エレクトリックギターの音にあることが、多いです。
耳をつんざくような痛みを感じると、
本当はその音を避けたいと思いながらも、そこへの意識は拡大され、
結果、その音しか聴こえないというような悪循環におちいります。

でも、あるとき、気がついたのです。
強制的に、強引に、その痛みを感じる音と真逆にある音、
この場合、たとえば、ベーシストの奏でる低音に、
ひたすら意識を向けるのです。

そうすると、あら不思議、
以前のような、過剰な耳鳴りからだいぶ解放されたのです。

*

これは、とてもおもしろい、興味深い現象だと思いまして。

同時に鳴らされている音であっても、
その中から、任意に、音を選びとることができるということ。

そういえば、大学の講義で音響学を受講していたとき、
"カクテル・パーティー効果" という現象を学びました。
これは、「様々な雑音が存在する状況で必要な情報を選別できること」で、
「カクテルパーティーに参加しているときに周囲が騒がしくても、
 自分の名前や知人の声を聞き分けられる」ことから、
心理学者のチェリーという人物が提唱したもの。

こういった能力は、普段、無意識で使いこなしているわけですが、
考えてみれば、すごいことなんだよなぁ、と思うのです。

*

音に限らず、日常の出来事ひとつひとつにおいても、
たとえば、今、僕は、macでこの文章を打っている最中ですが、
同じタイミングで、身の回りや、
そこから少し離れたところ、そして世界中で、
同時に、いろんなことが起きていると、考えられるということ。

こうして、横軸をだんだんと広げていって、
同時に奏でられている、さまざまな日常を意識することができたら、
なんだか、少し、こころが揺れ動いて、その振動で、
あたたかさを感じることができるのではないかなぁと、思うのです。

*

以前に本で読んだ、

「人が何を見ているかは見えるが、人が何を聞いているかは聞こえない」

という、美術家、マルセル・デュシャンのことばが、
当時の自分よりも、深く響いてくる今日この頃です。


一日分、若返る

同じ一日の過ごし方でも、
なにを進めるかの目的や、
なにを楽しもうかということが、
明確になっているかどうかで、
あっという間しか生きていない人と、
長い時間を生きてしまう人とがいます。

そのおかげで、
同じ年齢であっても、
若々しい人と老け込んだ人がいるのかもしれません。

早朝から8時間通しで、
euphoriaの新しい曲制作を、三人揃ってスタジオにて。
途中、お昼ご飯を食べた20分ちょっとを除いて、
ひたすら、それぞれの奏でる音に向かい合い、
だんだんと形になってきている
新しい曲の世界にどっぷりとのめりこんでいく。
そして、かなり手応えのある、これはよい!
と思えるその曲が仕上がりました。
ふと気づけば、あっという間の8時間。
急いで、スタジオの片付けを済ませる。

自宅に向かう、帰り道、あっという間に過ぎた今日一日を思い、
一日分、若返ったような気がしました。

家に着いて、新聞を眺める。
まだまだ若いのに、というような記事を読みながら、
亡くなったマイケル・ジャクソンのことを思う。

50という年齢のなかで、彼は、どれほどの時間を過ごしたのだろう。


ボタンダウンのシャツからTシャツに

夜のスタジオを終えて、車での帰り道。

暗くて細い、人通りの少ない道を走っていると、
ルームミラーにまぶしすぎるくらいに強烈なひかり。
なんだなんだと見てみると、大きなバイクが二台、
僕の車にだいぶ接近した状態で後をつけてきている。

人通りが少ない道なので、なんだか、ちょっと不気味。
道を曲がってもぴったりと着いてくるから、ほんとうに怖くなる。
とりあえず、ドアの鍵は、ばっちりと、すべて閉める。

しばらく走って、ちょっと道幅が広がったところで、
ぎゅーんとスピードを上げて、とうとう僕の横に現れた。

目を合わせないようにと、懸命になっていると、
トントンと窓ガラスを叩く音。
もう仕方ないと、覚悟を決め、目を合わせると、
そこにいたのは、警察官のふたり組。

びっくりして窓をあけると、
「はい、一時停止違反ね〜」と。
あらら、そうきましたか。
怖いなにかに追われているとばかり思っていたので、
一時停止のところでは、減速したものの、
教習所のときのような、完璧な停止はしなかったのです。

「なーに急いでるの?、親族が危篤とかですか?」
なんて言うものだから、
さすがに、「おいおい警察官よ」と思ったけれど、
「追われていると思いました」とゆっくり話すと、
なにも言わずに、スルーされて、書類を渡されたのでした。

腹立たしいというような次元でもないような、そんなできごと。


罰金は7000円。

このじめじめした季節を乗り越えるために、
さっぱりとしたボタンダウンのシャツでも買おうと
机にしまっておいた定額給付金だったのですが、
残念ながら、シャツはあきらめて、Tシャツにすることに。
とほほ。

ルールを見つけて自由を知る

ある一定のルールを決めるということは、
一見、表現の可能性を狭めることのように思えるけれど、
むしろ、表現の奥深さのようなものを
追求していくことにつながるのではないか。

最近、建築に関する本を読んでいたのですが、
そこに興味深いお話がありました。
スペインの建築家ガウディが活躍した時代は、
エッフェル塔に象徴されるような鉄やコンクリートなどの
近代的な工業材料が出現したけれど、
ガウディはあえて古くさい石とレンガを使い、
カタルーニャ地方固有の伝統的な工法を採用する建築を追求した。
風土的な、あるいは技術的な限定の下で実行することによって、
創造性が生まれ、あのサグラダ・ファミリア大聖堂に行き着いた。
それから、安藤忠雄の場合は、
鉄とガラスとコンクリートという素材を中心にして、
幾何学による構成で、建築をする。
「誰にでも開かれた材料と構法をもって、
 誰にでもは決してできない建築空間をうみだしたいと思っているのです。」

音楽家に関して言えば、たとえば、
sc-88proというDTM初心者が
まず始めに揃えるようなチープな音源と、
mac os9までしか対応していない
Opcode EZ-Visionというシーケンサーのみで、
今も制作を続けているレイハラカミの存在であったり。

それから、中野正貴の「TOKYO NOBODY」という写真集は、
「誰もいない東京」というルールを元に、
正月やGWなど本当に人がいないときに、
本来ならば人が多いはずの”東京らしい”場所での
撮影を長年に渡って撮り続けた作品。
最新号のブルータスでのインタビュー、
「簡単なルールを決めておいたほうが、写真が走り出してくれる。」
ということばは、「TOKYO NOBODY」を通して、
力強く、響いてきます。

*

ここからは、お話が飛躍してしまうのですが、、

ルール。
それは身の回りに存在しているものにも、気づかないだけで、
実は、たくさん存在しているのではないかな、とも思うのです。
それゆえに、たのしみが生まれたり、よろこびを感じたり、
ときには、腹立たしい思いになったりするのかもしれない。

こんなことを言うと、なんとも安直にと笑われるかもですが、
たとえば、「人は必ず死んでしまう」というのも、
言ってみれば、それもルールであって、
そのことにどれくらいの意識を注げるかで、
日常の見え方も変化してくるのでは、思います。

本当の意味で、自由であるということも、
ルールという存在を知ることなしには、
感じることができないのではないかなぁ。
そのルールとどう向き合うか、
そこでは、ルールからはみ出すという
選択ももちろんあって、
そんな局面をどれだけたのしめるかが、
自由に生きるということなのではないかなぁ、と思うのです。

アカバナユウゲショウ

なにげなく身近に存在しているものに、
いつもとはちょっとちがった接し方。

今まで、遠めからなんとなく、
きれいだな、と思っていた小さな野花に、
今日はぐっと近づいてみる。
香りを感じてみる。
実際に触れてみる。
その名前を調べてみる。

アカバナユウゲショウ。

とても小さくて繊細で、
なにげなく身近に存在しているものが、
自分のなかの世界を広げてくれる。


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お蕎麦屋のおばあさんのメロディー

これまでのゴールデンウィークの記憶が、
ほとんどないことに気付き、
今年はどこかへ、と思っていました。

そして行った先は、秩父の温泉。
こんなこというと、おじいさんのようですが、
僕は、温泉でゆっくり時間を過ごしているときに、
こころの中から湧いてくる、「ごくらくごくらく」という
ことばを感じることが、大きなしあわせのひとつなのです。

ゆったりと温泉に浸かったあとは、
おいしい手打ちそばを食べました。
小さな看板をたよりに、車を走らせると、
結構な山奥に、ぽつんとお蕎麦屋さんがあらわれる。
周りにはのどかな畑があって、
ここで使われる野菜はすべて自家栽培とのこと。
ガラス越しに蕎麦を打つおじさんが見える。

コシのある蕎麦で、揚げたての天ぷらも、とても美味。

そして、それ以上に、感動したのが、
おじさんの奥さんの笑顔、所作がとてもすてきだったこと。
おばあさんと言っては失礼かもしれませんが、
お孫さんもいらして(連休だから手伝いにきていた)、
そのお孫さんとお蕎麦を運んだり、天ぷらを揚げたりしていました。

店内では、演歌が流れているのですが、
その曲に合わせて、ときどき、
おばあさんが、くちずさむメロディー。
そのうたごえのかわいらしさ、力強さ、美しさ。
お蕎麦のおいしさと相まって、とても感動してしまいました。

ほんとうに、演歌が大好きで、うたうことが大好きで、
自然と溢れてきたそのメロディー。

近頃、よい曲を書こうとばかりの思いが先走り、
なかなか形にすることができず、どうしたことか、
という日々を過ごしていた僕にとって、
その自然と溢れてきたメロディーの存在は、
とてもこころに響くものがありました。

*

中学生のとき、初めてギターで
自分の曲を作ったときのよろこび。

ラジカセを二つ並べての多重録音で、ときめいた気持ち。

お小遣いを貯めて買った、
4トラックのカセットMTRを手にしたときの興奮。

サンプラーというものに初めて触れて、
夜も忘れて、ひたすら曲を作り続けた記憶。

3人で初めて、せーの、で楽器を鳴らしたドキドキした気持ち。

そのときそのときの感覚は、
きっとまだ、こころのなかに、身体のなかに、しみ込んでいる。
そんなことを気付かせてくれた、
お蕎麦屋のおばあさんのメロディー。

音楽というものを、こころから大切にしたい。
そして、音楽の持つ、その大きな力への感謝の気持ち。
そんな、ごくあたりまえだけれど、
ときどきぼんやりうすらいでしまう、
その気持ちをしっかりと抱えていきたいと思ったのでした。


パンとカーネーション

ストレート過ぎてもなぁと、思い、
そうだ、パンが好きだよな、とひらめいて、
僕のお気に入りのパン屋さん、ダンディゾンへ。
吉祥寺まで、自転車で出かける。

母の日のプレゼント。

さまざまなパンを買っての帰り道、
いざ、考えてみると、
これでは彩りにかけるなぁと、感じて、
結局、お花屋さんにも。
慣れないお花屋さんという空間で、戸惑いながらも、
淡いピンクのカーネーションを選ぶ。

自転車のカゴから焼きたてパンのおいしい匂いが漂ってきた。
そして、ぴょんと頭ひとつ飛び出したカーネーション。
なんだか照れくさい気持ちで、誰にも会わないようにと、
そそくさと、家へと向かう自転車を進める。

家に戻ると、久々に姉も遊びにきていて、
手作りのパンを持ってきていた。
あららー、と、苦笑い。

でも、森川家は、みんなパンが好きなので、
うれしさは倍増、ということで。


母の日なんて、ちょっと、照れくさいなぁ、と思うけれど、
この日があるおかげで、照れくさいながらも、
感謝の気持ちを伝えることができるんだよなぁと、思うと、
よい一日だったなと感じたのでした。

散歩のなかのふたつの季節

じんわりと暖かな日差しに誘われて、
川沿いの道へ散歩に出かける。

これぞ春の感触、と、こころで呟きながら歩いていると、
次第に、だんだんと、暖かいから少し暑いなぁ、に変わってきた。
ぴかぴかの太陽が照らす強い日差し。

すっと、吸い込まれるように、木陰のベンチへ。
この木陰に入って感じる、心地よさに浸っていたその瞬間、
夏がやってくる、とこころで呟く。

散歩している、その時間のなかで、
ふたつの季節に出会いました。

いっそのこと、梅雨を飛び越えてしまいたいなぁ、と、
そんなことを思いながら、ゆっくりと歩きはじめました。

頭にくっついた桜

スタジオからの帰り道、午後の日差しに照らされた、
舞い落ちる桜の花がきらきらとしていました。

家に戻って、なんだか無性に、
ポン・デ・リングが食べたくなってしまい、
自転車で、ミスドへ行く。

その途中、さまざま、回り道をして、
いろんな場所の桜を見て回る。
今年の桜もそろそろ見納め。

道ばたで、おばさんが、子供を、
大きな声で叱っている。

怒鳴り声は、ちょっと苦手ですが、
でも、そのおばさんの髪の毛には、
桜の花が数枚くっついていて、
その光景は、あまり嫌な感じがしないなぁ、
いや、むしろ、和む感じがするなぁと、思いました。

まんまるの瞳

日が落ちる前にランニング。

ここ最近、ペース配分がうまくいくようになってきて、
心地よい疲労感を味わえるようになってきています。

今日は、桜がきれいな道を辿りながらの一時間弱。

途中、川沿いのサイクリングコースで、
まぶしいくらいに満開の、桜の下を走っているとき、
向こう側からやってきたベビーカーの小さな赤ちゃんが、
桜のまぶしさを見上げながら、
目を大きくまんまるにして、ぴったりと静止していた。

絵に描いたような、まんまるの瞳。

とても小さな赤ちゃんだったから、あの子にとって、
桜との、はじめての出会いだったのかもしれないなぁ。

僕は、なんだかうれしい気持ちになって、
いつもよりも軽快なステップでのランニングとなりました。

あの表情が、今も、僕のこころから離れないでいます。

今年も春がやってきた

朝、スタジオに向かう途中、
引っ越し作業をしているトラックの横を、
何度も通り過ぎました。

いろんな場所で、新しい生活がはじまろうとしているんだなぁ。

そう思うと、いつもと変わらない僕の日常も、
ちょっとだけ、鮮やかに感じてきました。

五部咲きになった桜を、いつもよりゆったりと眺める。

この季節は、その年ごとの、思い出が、
それぞれ、鮮明に残っています。
そのひとつひとつを思い出していくと、
じんわりとあたたかくなってきます。

今年も春がやってきた。


よい試合になるといいな

WBC決勝がとてもたのしみなのですが、
あいにく、今から、早朝スタジオに行ってきます。。
よりによってこんなタイミングに。
euphoriaは非国民なのか。

よい試合になるといいなぁ。
あわよくば、イチローのヒットでの
勝利なんてことになったら、最高です。

わからないままにすること、平和を願うこと

「分からないままにする」ということは、
とても高度なスタンスであると思います。

学習塾や予備校などの宣伝で、
「分からないままにしない」
というようなフレーズがあったような気がします。
確かに、受験のための勉強では、分からない部分があったら困る。

でも、学生生活を終えて、2年ほど過ぎた今、感じていることは、
「分からないままにする」ことの大切さについてです。

例えば、なにか自分とは異質のものに出会ったとき、
意味不明ということでその場で切り捨てるということは、
「分からないままにする」ということではないと思うのです。
もうすでに無いものとなっているわけだから、
そこには、「分からない」という概念も存在していない。

また、異質なものと出会っても、
それまでの自分の知識のなかで、
強引に処理してしまう傾向も、頻繁にあるので、
そういった意味でも、「分からないままにする」ということは、
大変、難易度が高いと思います。

身の回りには、「分からない」ことがたくさんあります。
そうしたものと「分からないまま」向き合い続ける。
その時間のなかで、思うこと、感じることを通して、
学びとったことは、いつまでも自分のなかに残るのでは。


そして、人と接するときも、
出来る限り、「分からないまま」でいられたらと思います。
他人と完璧に「分かりあえる」ことなんて
不可能である、ということを根底に置きながらも、
それでも、「分かりたい」という姿勢からでしか、
平和を願うこともできないのではないかなぁ。

ほんとうにすきなもの

昨晩録画しておいた、
NHK教育の「知るを楽しむ・星野道夫」を
朝食を食べながら見る。

毎回の放送ごとに、星野道夫に縁のある方が
番組を展開していくのですが、
三回目の放送の今回は、妻の直子さんが担当。

まだ結婚をしていないときのこと、
星野道夫が「あなたの夢はなに?」と尋ねたそう。
その頃は、フラワーアレンジメントに興味があって、
だけど、まだほとんど知識もない、という状況で、
なかなか一歩が踏み出せないでいた。

周りの友人や家族は、「あせらないでいいじゃない」
「もう少し様子を見てみたら」、という話が多かったけれど、
星野道夫に話したときには、こう言ったそう。

「本当に好きだったら大丈夫だよ」

そのひとことで、ふっと背中を押してもらって、
大丈夫なんだと思い、すぐに動きはじめたそう。

そして、取材者からの質問で、
「夢のあとおしの言葉は直子さんが特別だったからですか?」、
と聞かれると、笑い話なのですがと前置きをして、

「周りの友人の何人にも、”大丈夫だよ”と言っていたそうです。
 私だけじゃなかったんだ、という。笑
 誰に対しても分け隔てのない態度で接する人だったので・・・」

そんな素晴らしいお話を、うっすらと涙を浮かべながら、
語る直子さんの姿にじーんとくる。

大きな自然との関係性を語る星野道夫という存在だけでなく、
こうして、日常の中での星野道夫という存在にも、
触れることができて、なんだか新鮮な気分。



「本当に好きだったら大丈夫だよ」、
なんてすてきなことばなんだろう。
もちろん、これは星野道夫が語るから、
そこに奥行きが生まれ、感銘を受けるのですね。

僕も、本当に好きなものを
大切に、大切に、していきたいと感じました。

she has a rainbow

深夜のスタジオでeuphoriaの曲作りを終えて、
朝6時頃に家に戻る。

お昼前まで寝て、目覚めると、
この上ないほどの、どんよりした低気圧。
とても暗くて、重くて、なまぬるい。

こういうときは、どうしても、気分もどんよりしてきます。

家での曲作り作業も今ひとつはかどらず。

そうこうしているうちに、夕方、
眩しい日差しが雲間から射し込んでくる。
その光のなかで、降り続ける雨の様子がきれいで、
ベランダに出てみると、びっくり。

どこも途切れること無く、完璧な架け橋となった、
大きな虹に出会いました。

こんな絵に描いたような虹に出会ったのは、いつぶりだろう。

お昼に目覚めて、今日はなんてすさまじい重さなんだ、くぅ、、、
と思っていましたが、それには、こんな訳があったのですね。


笑ったことも怒ったことも

近頃はそれほどでもないのですが、
僕は調子の良いときと悪いときの差が大きいです。
それでいて、人に迷惑をかけてはいけないという思いから、
出来る限り、いつも通りのコミュニケーションを
こころがけようとして、
それから、家に戻ると、
バタンと倒れ込んでしまうようなことも多々ありました。

そんな不調時にも、
ちょっとした思いつきが浮かんだりする瞬間があって、
ほとんどのときは、
こんなこと思いついても、なんにも発展しないよなと、
その時点でばっさり切り捨ててしまうのですが、
あるとき、その思いつきを言葉にして
たまたま手帳に書き込んでました。

そして、数日後、普段の調子に戻った状態で、
そのページをめくると、こんなこと書いたっけなぁ、
という懐かしさで、その言葉は登場してきて、
そこから、さまざまなアイディアが湧いてきたのでした。


不調時の自分は、切り捨てて、無かったものに、
してしまおうと思いがちですが、
そんなときの自分もあるがままに受け入れることができたら。

調子が良いときも悪い時も。
うれしいときもかなしいときも。
笑ったことも怒ったことも。
暇なときも多忙なときも。

そういった、さまざまな自分の面を
溶け合わせることで、生まれてくるひとつの考えは、
きっと、太くてどっしりとした佇まいの、
しなやかな存在になると思うのです。

パジャマらしいパジャマ

早朝の澄んだ日差しに憧れながらも、
寝起きの悪い僕は、なかなか朝から活動ができない。
前日、寝るときまでは、早起きする気持ちがあふれているのに、
朝になると、どうしても。

どうしたら、このよろしくない習慣から抜け出すことができるか。

そこで、思い付いたのが、ちゃんとしたパジャマを着て寝て、
翌朝は、すぐに着替える、という方法。

これまで、家にいるときは、
ルームウェアという類いのものを着ていて、
そのまま就寝、翌日は、出かけるまでその服装でした。

いつからだろう、パジャマを着なくなったのは。
思い返すと、それは、中学一年生のときに経験した、
寮生活のタイミングだったと思います。
確かに、小学生のころまでは、パジャマを着ていた。

でも、寮生活で、上級生のほとんどは、
部屋着がパジャマだったのです。
その影響で、パジャマという存在が僕の中から失われていたのです。

ちなみに、懐かしい思い出ですが、
中学一年生の決められた仕事のひとつに、
ブタ当番がありました。ブタの餌やりや、ブタ小屋の掃除。
ブタ小屋の匂いは相当過酷なので、
豚着(とんぎ)なるものを着用するのですが、
なんと、豚着で就寝していた強者までいました。

euphoria3人が過ごした寮生活には、
一般人の度肝を抜くようなエピソードが満載なのですが、
話がそれてしまうので、またの機会に。





ということで、パジャマらしいパジャマを買いにいきました。
さわやかな歯磨きのCMでモデルの人が着用しているような、
ちゃんとボタンがついていて、ちょっとゆとりがある作りのものです。

でも、意外と、イメージしていたのがなくて、
ボタン付きはあきらめることに。
変わりに、長袖Tシャツとスウェットですが、
素材と色合いが、いかにもパジャマな感じのものを購入。

そして、買ってきたその日から、それを着用して、
朝は、すぐに着替える、という作戦を決行。
これが見事に成功していて、
3日連続、朝の日差しを浴びながら、行動ができています。

わざわざパジャマを買ってしまった、という追い込みの心理が
一時的に働いている気もしていますが、、、
洗濯をして、コーヒーもじっくり煎れてしっかりとした朝食、
そして植物の水やり、といった、心地よさを実感することで、
朝から行動するという習慣、
しばらくは、続けられるのではないかな、と思っています。





パジャマつながりということで、
lullatoneの "Plays Pajama Pop Pour Vous" をオススメ。
本作のコンセプトは、なんと「パジャマ・ポップ」。
バスドラムの音が、枕を叩いた音( ! )のサンプリングだったりします。
少ない音数で、充実した音楽です。

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lullatone "Plays Pajama Pop Pour Vous"

まわりの世界を歪ませず

以前のvoiceで、「偏見を持たないという偏見」について書きましたが、
あれからも、時々、そのことを考えています。

偏見から解放されることは、
自分のまわりに広がる、大きな世界と、
しっかりとつながっていくために、
とても大切なことであると思います。

ただ、実際の日々の中でどうしたらいいかとなると、
無意識の中で、自分の都合の良い形へ自動的に、
決めつけてしまう働きのある脳の性質から考えても、
なかなか難しいことだなぁ、と思います。

そもそも、そんなにいろいろと考えて、
どうこうなる問題ではないのかな、とも思ったり。


でも、ひとつ思い浮かんだことがありまして。

それは、「どんな場面でも人をバカにしない」という生き方。
それをこころがけるのはどうだろう。

自分とは異質のものに対して、
ちょっとイライラしたり、腹立たしくなることや、
否定的な考えを持つことは、ごく自然なことで、
それは、とても大切な感情であると思います。
でも、その姿勢の中に、少しでも、バカにしたような気持ちがあると、
どうしても、自分のまわりの世界は歪んで見えてくるのではないかなぁ。

「どんな場面でも人をバカにしない」。
シンプルだけれど、きっととても難しいこのテーマ。
頭の片隅に置きながら、じっくり膨らませていきたいと思っています。

グアテマラつながりの驚き

池澤夏樹と石牟礼道子の対談に興味を惹かれて、
2008年10月号のcoyoteを古本屋さんにて購入。
対談内容は ”世界文学とは何か?”。

数日後、スタバにて本日のコーヒーがおいしいなぁ、と思い、
調べてみたら、グアテマラの豆を使っているとのこと。
酸味の強いコーヒーは苦手だけど、
このとき飲んだグアテマラは、とても上品な酸味がほのかに漂っていて、
いい具合の渋さ加減もあり、こういうコーヒーもいいなぁ、と。

家に戻って、ふと本棚に目をやると、
そういえば、こないだ買ったcoyoteの巻頭特集が、
”森の国、グアテマラ” であったことに気づく。
これはちょっとした偶然、ということで、
パラパラとページをめくる。
人間が最も住みやすい、一年中、春の国で、
花や樹木の緑が多く、湖や山がとても美しい天国。
深い緑が美しい写真を眺める。

そして、おっ、と驚いたのが、
「グアテマラの楽器として最も知られているのが、マリンバ」という文章。
グアテマラの国民的楽器として、村祭りや結婚式、
または観光客向けのパーティーなどでも演奏されているそう。
僕の音楽との出会いは、小学生の時にマリンバを習っていたことなので、
コーヒーに引き続き、これまた親近感。

と、そんなこんなで、今日、びっくりしたことがありまして。
organic stereoのmyspaceで、フレンドリクエストをチェックしていたら、
グアテマラに住んでいる方から、
「いい音楽をありがとう」、というメッセージが!
ここまでさまざま重なると、なにか不思議な力の存在を感じてしまいます。


その不思議な力で、今度は、
「グアテマラで演奏してみないか?」というようなことが起きないかなと。
そんなスケールの大きな出会いができるような、
生き方ができたらいいな、と思ったのでした。


歩き続けること

j-waveのboom townという番組のlive the lifeというコーナー、
もともとはorganic stereoの"the frog princess"をBGMで
使っていただいているからということで昨年から聴き始めたのですが、
毎回出演されるゲストの方のトークがおもしろくて、
たのしみにチェックしています。

最近では、写真家であり冒険家の
石川直樹さんの登場がうれしかったです。
週の最後の放送では、本人が大事にしている思いを
色紙に書いて発表するのですが、
石川さんの言葉は、「歩き続けること」。
僕は今年の目標として、
「急がずに、でも遅すぎることなく、歩き続けること」、
を考えたのですが、
たくさんの旅をされている石川さんの口から、
この言葉を聞いて、
今年の目標がより立体的に見えてきました。

それから、先週のゲスト、
映像作家の丹下紘希さんの、
「道ばたの石ころを宝石と思えること」
というお話もよかったなぁ。

そして、今週は、蒼井優さんがゲスト。
自分の話す言葉をゆっくりと探しながら、
控えめなテンポでの話し方、
それでいて、芯が強くてまっすぐな感じがいいなぁ、と思いました。
蒼井優さんの声のうしろでorganic stereoが流れているのが、
なんだかとても、うれしかったり。


テレビよりラジオの方がおもしろいなぁと、最近感じています。


自分にはなにもできない

小室哲哉被告の初公判のニュース。
テレビのコメンテーターや街角の声などが取り上げられていて、
そのほとんどは、あきれた様子や怒りや
笑いのネタのようになっているけれど、
それを見ていて、なんだかなぁ、と思ってしまう。

確かに、異常なほどの金銭感覚や売れていたときの不思議な発言など、
おやおや、と思ってしまうことは多いけれど、
果たして、もしも自分が、長者番付がどうこうという境遇にあった場合、
どうなってしまうのかと、考える。

普通の人間だったら、きっと、いろんなものが見えなくなるだろう。
それは、ごくごく自然のことのように思えます。
その境遇のなかでも、大切なものを見失わないでいるのは、
それこそ尋常ではないような気がします。
その境遇を想像すらできない僕なんて、
間違いなく、ダメになってしまうなぁ、と思うのです。

もっと規模が小さいものであれば、
今回のような状況に身の回りで出会うことがあるかもしれない。
そんなときになにができるか。
たとえば、いつも感謝の気持ちを忘れないでいれば大丈夫と思っていても、
自分が置かれた状況によっては、困難なことなのかもしれない。
こころのなかの静けさに耳を傾ける、なんてことは、なおさら難しいのだろう。
自分でなにかできるということは、思い浮かばない。

たった一つ、できうることとしては、
信頼のおける人や、家族、大切な人、友人、
身近に、その存在を大切にしていくことくらいだなぁ、と思うのです。


休ませてあげる

「休んでしまう」ではなくて、「休ませてあげる」。
自分の体に、そう言い聞かせることのできる
余裕を持ちたいものです。

いつも体調が崩れかけてから、
仕方なく、今日は早めに寝なくては、
と考えてしまっていたところを、
常日頃から早めの就寝をこころがけることができたら。
そこから生まれたよいリズムは、
それまでの夜更かし作業の連続よりも、
きっと質の高いものを作りだしていけるはず。

ここ最近、体の大切さをいろんな場面でつくづく感じています。

今日読んだ「体は全部知っている」という吉本ばななの小説も、
今の僕にタイムリーなお話で、なかなかの読後感でした。


遠くを見渡せる視界

あけましておめでとうございます(遅ればせながら)。
今年も、どうぞよろしくおねがいします。


年末から、目の具合がよろしくなくて、
本を読んだり、パソコンをしていると、頭痛に悩まされていました。
眼科へ通い、コンタクトの度数を変えてみたりと、
色々と原因を探してみたものの、なかなか改善されず。

目の不調は、生活全般に影響を及ぼすものなのですね、
どうしようかと考えた末に、そうだ、この際、
前々から興味があった、レーシックの手術(近視手術)を試みてみよう、
ということで、先日、無事に手術を終えて、
快適裸眼生活をしています。
まだ多少の違和感はありますが、以前の疲れ目からは解放されたのです。

ちょっと前までは、安全面や金銭面などで、
だいぶハードルが高かった、近視手術が、
ここ最近、新しい設備の開発がめまぐるしく進んで、
だんだんと身近な存在になってきているようです。
もう何年かしたら、歯医者さんで虫歯を治すような感覚で、
ちょっと視力が悪くなったから、視力回復しよう、
なんてことにもなったりするのかなぁ。
まぁ、個人個人の角膜の厚さなどの関係もあるので、
話はちょっと違ってくるとは思いますが。

手術を終えて、帰り際、14Fにある近視クリニックの大きな窓から、
東京の街並をしばし眺めていました。
遠く遠くの細かな部分まで驚くほどに繊細に見えました。
この遠くまでを見渡せる視界を、
こころのなかにも取り入れることができたらいいな、と、
そんなイメージが湧いた近視手術でした。

偏見を持たないという偏見

だれかの偏見によって、
ぎくしゃくした人間関係だったり、
冷たい世の中だったり、
醜い争いごとだったりが、
起きているのではないかな、と考えて、
ぼくは、なんとしても偏見だけは持ちたくないと、
そんなことを思っていたときがありました。

でも、ちょっとこころを落ち着かせてみると、
その、" 偏見だけは持ちたくない "という考え方そのものが、
偏見というものではないかな、と思ったのです。

ある人に対して、
「あの人は偏見ばかりで」と決めつけていては、
自分自身だって、偏見を持っていることになります。

なんだか、こんがらがりそうな話ですが。。

人はだれでも、少なからず、偏見を持ってしまうもの。
そのことは、常に意識しておく必要があるのでは?

身の回りで偏見のようなものに出会ったとき、
「なんだ、あいつ!」と、ばっさり切り捨てるのでは、
それこそが、れっきとした偏見そのもの。
偏見と感じてしまうものを、
自分自身の偏見で切り捨てるのではなくて、
どうしてその偏見のようなものが生まれてしまうのか、
考える姿勢を大切にできたらいいなぁと、思うのです。


いつもとちがう宅急便

午前中に宅急便が届く。
笑顔がさわやかな、
いつもの配達のお兄さんだったのですが、
なんだかいつもと様子が違って、
印鑑を押そうとした僕は、玄関から、
落っこちそうになる。

それは、配達のお兄さんが、いつもより、
玄関口からだいぶ離れたところに立っていたから。
そして、いつもよりかしこまった応対。

そうか、あの事件があってのことなのですね。

新聞で読んでいたときは、ふむふむと、記事を読んでいたものの、
実際、こうした状況の、犯行であったことを思うと、
とても恐ろしく、そしてなんとも悲しい気持ちに。

踊りだす音たち

家全体の大整理は、
これはもしや引っ越し以上の労働なのでは、
なんて思うほどの大変さ。

その作業も、終盤戦。

これまで10年近く過ごしてきた、
スタジオ兼、僕の部屋も、
このたび、移動することに。

これまでの部屋は畳の部屋に絨毯を敷いていたので、
耳がしんとなるほどに、音の響きがない、デッドな部屋でした。
ミックス作業は、だいぶクールにできるという
メリットはあったけれど、
楽器を弾いていて、または好きな音楽を聴いていて、
楽しい感じはあまりなく、
真剣に練習したり聴き込んだりに、適した部屋でした。

その部屋とは、まったく正反対の、
音の響きがめっぽう多い部屋に移動したのです。
ミックス作業でのモニター環境は、さまざま改善の余地がありますが、
アコギをさらっとつま弾いた感じは、最高。
ここから、また新しい曲たちと出会っていくことがたのしみです。

この部屋で音楽を聴くのも、今までになく心地よい。
音のひとつひとつが踊りだすかのようで、うれしくなってくる。
静かな夜、部屋移動の作業途中でしたが、
スピーカーから流れてくる、
フェデリコ・モンポウの静穏なピアノ曲が、
新しい部屋の響きと混ざり合い、思わずうっとり。
うっとりはいいですが、うっとりすぎて、そのままぐっすり。
固い床から目覚めた僕は、労働の疲労感と相まって、
相当な筋肉痛。


部屋完成まであと一息。


しなやかなスタンス

一週間ほどかけて、自宅の家全体の
大掛かりな整理をしています。
屋根裏にも家族の大量の荷物があって、
保存するべきものと不要なものとを、
選別していく作業は、なかなか大変です。

大量のCD、書物、写真、ビデオテープ、などなどを眺めながら、
これは、パソコンに取り込んでおけばいいなとか、
これはインターネットですぐ調べられるな、と判断して、
大多数のものは部屋のスペースの都合上、処分していくことになります。

そんななかでも、とっておきたいな、と思うものたちというのは、
人から手渡しでもらったものや、
お気に入りすぎて、体に染み付いている存在のものなど。
そういった条件は、多くの人が共通であるかもしれません。
だから、この先、どんどんと情報化が進んでも、
物そのものの存在の大切さを意識したい、
と考えることにつながっていくと思います。

確かに、それは、とても正しいことですし、
ちょっと前までは、僕もその大切さばかりを考えていました。
でも、身の回りの至るところで起きている情報化の
目まぐるしい進化を思うと、
今は正しいことでも、その正しさが何年か先には
通じなくなることもあるのではないかなぁ、とも思うのです。
そうした社会の流れのなかで、どんな生き方をしていけばいいのか。
そうそう簡単に答えが見えるわけでもなく、
むしろ、答えなんてないような問題なのかもしれないけれど、
常に考え続けていくということが大切なのではないかなぁ。

世の中の流れにそのまま流されるわけでもなく、
だからといって、世の中に背を向けるわけでもなく、
しなやかなスタンスで、さまざまなことを
考えられたらいいな、と思っています。


自転車屋さんのおじさんと、こころのあたたかみ

ぼくの自転車は、
中学生のときから乗っているので、
10年以上も乗り続けていることになります。

歩きだと、ゆっくりすぎて、それほど景色は変わらなくて、
車だと、速すぎて、景色をじっくり味わうことができない。
そういったわけで、ぼくにとって、自転車という乗り物は、
一番しっくりくる存在なのです。

そんな自転車好きなぼくなので、
通常よりも、多く自転車にお世話になっていて、
それで10年以上、しかも、普通のシティーサイクル(ママチャリ?)で、
というのは、だいぶ長持ちしている方だと思います。

その自転車が、先日、故障してしまい、
このところ、ギコギコ音も大きくなってきていたし、
そろそろ寿命かな、古いものだし修理も高くつくだろう、
最近の自転車は、ずいぶん低価格だから、
新品買った方がいいかな、なんて考えながらも、
近所の、自転車屋さんに状態を見てもらうことに。
この自転車屋さんは、ぼくが生まれたころからある、
職人気質のおじさんが働いている年季の入った小さなお店。

おじさんは真剣な眼差しで自転車のあちこちを眺め、
穏やかながらも頼もしい口調で、ひとこと、
「直してみよう」。
つなぎ服はもちろん、顔回りまで、
油の汚れでいっぱいのおじさんの、
温かい眼差しに、そっと背中を押される感じで、
迷わず、「それでは、おねがいします。」とお伝えする。

そして数日後、故障していた部分以外にも、いろいろ点検してくれて、
おまけに、塗装までサービスしてくれて、
最高に乗り心地のよい自転車に生まれ変わりました。
それまでが相当ガタガタな状態だったということもあるけれど、
こんなにも滑らかな乗り心地、それはまるで、
地上から数ミリ上を進んでいるような感覚。
そのうれしさに誘われて、ふたつ離れた街まで、
長めのサイクリングに出かけたのでした。

*

修理にかかった費用は、結局、
低価格の自転車と同じくらいだったのですが、
愛着のあった自転車にさらに深い愛着が
湧いてきたというよろこびを思うと、
おじさんにおねがいしてよかったなぁ、と思いました。
いつまでも大切にしたいという気持ちになったのです。

近頃、身の回りでは、とにかく安くとか、楽に素早くとか、
そういったことばかりが重視されていて、
職人さんのような存在の影が、
どんどん小さくなってきているようですが、
今でも、こうして実際に、「ほんとうによい仕事」に
出会ったときに広がる、こころのあたたかみを感じると、
大切にするべきものについて、改めて考えてみたくなります。
そして、これから自分が作り出していくものについても、
同じような視点で考えてみたり。

銀メダリストの姿から

オリンピックを観ていると、
こらえることができないくらいに、
じーんとくる瞬間があります。

もちろん金メダルを穫ったときは、とてもうれしいのですが、
あと一歩で、金メダルを逃して、銀メダルというときのシーンに、
なんだか、じーんとしてしまうというか、震えがくるというか、
大きくこころが動きます。

このオリンピックに向けて、毎日のように、
僕たちの想像を遥かに超えた厳しいトレーニングを積み重ね、
ひとつひとつの試合に向かうプレッシャーと向き合いながら、
ときにはスランプになって、苦しんで、
思い悩んだり、それでも乗り越えたり、
そんな積み重ねの日々が、銀メダリストの姿からは、
特にリアルに、強烈に浮かび上がってくるのです。

金メダリストの涙からも、
それまでの苦悩の日々が伝わってきますが、
それとは別の次元といいますか、
観ていて、いてもたっていられなくなる感覚で、
思わずテレビ越しに、涙ながらの声援を送ってしまうのです。

柔道女子の塚田選手が最後までリードしていながら、
ラスト10秒ほどで、背負い投げされて金メダルを逃したとき、
僕のなかにたくさんの想像が生まれて
(勝手な思い込みも多いと思いますが)、
ぶるぶると震えてしまいました。

そして、翌日の朝刊で、
銀メダルを手にしている塚田選手の
とても清々しい笑顔を見て、
またまた、えらく、感動してしまったのでした。

そよぐ風、なくなった夏休み

夏休み。
小学生の頃はこのことばを聞くだけで、
胸がわくわくして、うれしくなっていました。
それから中学高校、そして大学と、
年齢が上がるにつれて、だんだんと
その気持ちは薄らいできたけれど、
それでも、やはり、夏休みになるとうれしくて、
計画表を書いたり、旅行に出たり、
さまざまな思い出があります。

今年は、夏休みがなくなって、二年目の夏。
冷房をつけた部屋でぼんやりと時間を過ごしていると、
夏休みがなくなったことを思い、ちょっと切なくなる。

なんだかなぁ、と思って、
夏の空でも見てみようと、なにげなく窓を開けてみた。
その瞬間、真夏の日差しをすり抜けて、
すっと、心地よい感触の風が吹き込んできたのです。
冷房をつけて過ごしていたから、
今日、こんな心地よい風がそよいでいること知らなかった。

うーん、なんとも気持ちよい、
これは、まるで、夏休みみたいだな。

そよぐ風には、さまざまな思い出がつまっている。

そよぐ風が、なくなった夏休みを届けてくれたみたいです。


ライン

理想をぼやけさせながら、
むやみにそれを高い位置に持っていく、
それは、いつもの悪い癖。

そうではなくて、
現状を過少したり過多したりせずに眺めて、
しっかりとラインを定めること。
そのなかで、出来うる限りの努力。

ラインを明確にできたら、
それ以外を、潔く、手放せるようになりたいものです。


うなぎのゆくえ

中国産のうなぎをうなぎの名産地である四万十川産と偽り、
販売していたということがニュースになっています。

この「偽装」関連の事件は、
いろいろなところで問題になっていて、
今回の事件に関しても、販売元の社長さんが出てきて、
「早く認めなさい」、「嘘つき」、みたいな扱いで、
取り上げられています。

でも、それと同じくらい気になるのは、
今回、四万十川産と偽り、
販売された数の9割方を占めていた中国産のうなぎのゆくえのこと。

どうなってしまうのだろう、
そう考えると、とても胸が痛みます。
こんな事件に巻き込まれなければ、
うなぎとしての存在を全うできたはずなのに。

うなぎのたたりが起きるのではなかろうか。

奏でた音が、帰り道の人混みに吸い込まれないように

ある日の表参道からの帰り道、
新しく開通した副都心線で、のんびりと
明治神宮前から帰ろうと思ったけれど、
夜もだいぶ遅かったので、本数が少なく、
山手線で原宿から帰ることにしました。

多少の混雑は、覚悟していたけれど、
なんだか、いつもに増して人の数が多い。
どうやら代々木体育館あたりで、ライブがあったようで、
その歌手の(とても有名な人)のグッズを身につけた人がたくさん。

まいったなー、こんな混雑に巻き込まれるなんて。
時間はかかっても、副都心線を使えばよかったなぁと思いながら、
駅の階段のど真ん中で立ち止まっている人たちの間を抜けて、
少しでも空いてるホームへ歩こうとしていたとき。
そこにいた人(その歌手のグッズの帽子をかぶっていた)と軽く肩がふれて、
その瞬間、もの凄い形相をこちらにむけて、あからさまな舌打ち。

僕も、その日はだいぶ疲れていたので、
こころのなかではちょっとむっとしてしまったけれど、
少し頭を下げて、そのまま通り越していきました。

なんだか、少し、かなしい気分に。

素晴らしいライブを観た帰り道、僕にはいろんな思い出がある。
そんな時の心境は、いつも、
今まで目にしてきたあたりまえに存在していたものまでも、
きらきら輝いて見えてくるような気持ちが溢れていて、
これからの自分の日々がわくわくしてくるような、そんな感じ。

ライブを観に行った後、その内容がいまひとつの場合、
ときには、疲労感におそわれることもありますが、
確かに疲れはあっても、そんなことを忘れてしまうくらいの
大きな感動に満たされるライブもあります。


今回出会ったような数のお客さんが集うライブとは規模が違うけれど、
僕も、頻繁にライブをさせてもらう機会があります。

自分の奏でた音が、その日一瞬で、
帰り道の人混みに吸い込まれ、
消えていってしまうことのないように、
そして、あわよくば、
観に来てくれた人たちの
なにかしらの力になれるような、
そんなライブができるように、
ひとつひとつのステージと真摯に
向き合っていきたいと思ったのでした。

走りたいから走る

ここ数日、いまひとつ頭が冴えない。
先日、巨大なゴキブリに遭遇したショックからなのでしょうか、
いや、もちろん、そんなことではないのですが、
創作意欲や、新しい発想が湧いてこないのです。

こういうときに、どうして創作意欲が湧かないのかと、
探っていくことは、最もよろしくないことで、
そんなときには、長距離のランニングに出かけます。
前までの自分だったら、調子の悪いとき、
その原因を細かく探り続け、
さらに深みにはまっていくことが多々ありました。
でも、そんな原因が簡単に分かるのであれば、
そもそも不調にはならないわけで、
そんなときは、今の状態を
あるがままに受け入れようとこころがけています。

そう、そんなときに、ランニング。
これも、不調から抜け出すために、
なんて思いながら走ってはいけません。
ただ、走りたいから走る、
そして、ゆっくり通り過ぎる景色を楽しむ。
そんな心地よさから、あわよくば、
新しい発想が生まれることもありますが、
それが目的ではないのです。

「人間はほんとうに重要なことについては、
 ほとんど必ず原因と結果を取り違える」

という一節が、今朝、読んでいた本にありました。

たとえば、人とのコミュニケーションにおいて。
僕たちに深い達成感をもたらす対話というのは、
「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって、
それがことばになって二人の間を行き来するのではなくて、
ことばが行き交った後になって、
はじめて「言いたいこと」や「聴きたいこと」
を二人が知った、そんな経験。

たしかに、すでに「それ」が分かっているのであれば、
これから起こす行動に、大きな魅力は生まれません。
そんな観点から、「いま」を大切に生きるということを考えています。

*

こうやって、長々とvoiceを書くことが出来たということは、
だんだんと調子が上向きになってきたのかもと、
心地よいランニングを終えて、気づいたのでした。


嫌な夢をたくさん

真夜中によく冷えたアイスコーヒーを飲みながら、
お気に入りのヘッドホンで音楽に浸っていたら、
足下の左30cmあたりを黒い物体が通り過ぎました。

声に鳴らない悲鳴をあげて、視線で追いかけると、
それは、やはり。。
寿命がだいぶ縮まる。

気を失いかけながら発射したゴキジェットは、
放出しすぎて、一缶使い果たし、部屋の匂いは凄まじく、
リビングで寝ることに。

そして、嫌な夢をたくさん。

新しい朝

" 僕達はいつも新しい朝をポケットに持っている "

KONDO TOMOHIRO OFFICIAL WEB SITEで、近藤さんが書かれていたことば。

なんて素晴らしいことばなんだろう。
このことばがあれば、いつでも、きっと動き出せる。
ちょっとした不安が積み重なって、視界がぼやけ、
身動きがとれなくなってしまうことの多い僕ですが、
そんなときには、自分のポケットから新しい朝を。

7/2に発売される近藤さんの新しいアルバム『二つの鼓動』の、
1曲目のタイトルは、“A NEW MORNING”。

発売日がとても待ち遠しい今日この頃。


暮らしやすさ

姉の引っ越しの手伝いで、いろいろな荷物を車で運ぶ。
自宅からは車で30分ほど離れたところにある、新しい姉の家は、
木々や花々に囲まれたのどかな環境で、
すぐ近くには大きな公園があったり、落ち着いた雰囲気の坂道があったり、
とても心地よく時間が流れていました。
きっといろんな物件を巡り巡って、見つけたんだろうな。

思えば、僕が生まれたときから暮らしている、この自宅も、
すぐ近くにきれいな川の流れる公園があったり、
いろんな種類の小鳥がベランダに遊びにきたり、
窓から窓を通り抜ける風が心地よかったり、
なかなか暮らしやすい環境。

そんな恵まれた環境に慣れきってしまい、
これがあたりまえのように感じていた僕は、
いつか新しい暮らしをはじめるときは、
ある程度の大きな音さえ出せれば、どこでもいい、
なんてことを考えていたけれど、
思っている以上に、住環境って大切なんだろうなぁ。

いつの日かやってくるであろう、
新しい家に住むときのことを思いながら、
いろんな想像を巡らせては、
わくわくしたり、なんだか不安になってきたり。

暮らしやすさを考えながら、また姉の家に遊びに行こうと思います。


体とこころを動かす努力

新年を迎えるときには、それまでの自分を振り返り、
これからの目標をかかげて、やる気がひしひしと湧いてくる。
誕生日を迎えるときにも同じく、自分を振り返り、
目標をかかげて、新鮮な心構えが生まれる。

僕は、そんな単純な人間だったりするので、
6月生まれのであってよかったなぁと、思います。
1年間のちょうど半分の周期で、
そのタイミングがやってくるわけです。

*

26歳になった自分に向けて、いろんなことを考えています。
いまの時期は、いくつかの理想をかかげてみても、
そのほとんどは、遠く遠く離れた存在で、
そこに辿り着くまでの途方もない道のりを思うと、
ときには、不安に押しつぶされそうになることも多々あります。

でも、そんなとき、悩みに深入りして、
もやもやした気分のまま、
身動きがとれなくなってしまうことのないように、
意識的に体とこころを動かす努力をしたいと思っています。

きっとそこから、いろんなものが見えてくるのではないかなぁと、思うのです。

意外にも、近いところにある

いくら進めていっても、とことん考え込んでみても、
「うーん、全然ダメだ」と、途方に暮れる。

でも、おもしろいことに、
その「全然ダメだ」から、「これかなりいいなぁ」までの変化は、
意外にも、近いところにあるようです。

どうにもこうにもまとまらなくて、途方に暮れそうなとき、
ほんの小さなアクションで、すべてが途端に整いはじめる。

euphoriaの新しいアルバム、
"silence in everywhere"を制作している最中に、
そんな瞬間が多々ありました。


日々のなかで、なにか新しいものを
作り出そうとしているときに、大切なのは、
そのものに対して、しっかりと向き合いながら深く追求していくと、
往々にして、行き詰まることがあるけれど、
そんな状況を、投げやりにせず、焦ることなく、
ゆったり、どっしりと過ごすということ。

「全然ダメだ」から、「これかなりいいなぁ」までの変化が、
意外にも近いところにあることを頭の片隅に置きながら。

思いやり

今日を生きるのに遅れてしまわないように、

時には、相手のことを考えない勇気を持ちたいと思う。

今日を生きるのに遅れてしまっている状況では、

ほんとうの意味で、相手のことを思いやることなんてできないのだから。

*

自分に対して半端だから、相手への思いも半端になる。

自分に対して確かな責任を持てば、

相手への思いやりも確かなものになる。

ギターとコーヒー

あちらこちらで、物価上昇が騒がれていても、
いまひとつ、強い実感が湧いていなかった僕ですが、
先日、久々に街を歩いていたときのこと。

ふらっと立ち寄った楽器屋さんで、
"fender製ギターの値上げ”のお知らせを見かけ、
帰りに立ち寄ったドトールでは、
コーヒーが値上がりしていて、
そのとき、物価上昇を身にしみて感じました。

他のことでは、そんなに気にかからなかったけれど、
ギターとコーヒー、なんだかずしんと響きます。

おいしいコーヒーを飲みながら、
ギターが心地よく鳴ってくれさえしたら、
きっと、それだけで充分、満たされる人なのかも。

夏のはじまり

夕方に、家の前の坂道を、自転車で駆け下りると、
なんとも心地よい、初夏の香りが漂っている。
その空気を全身で感じながら、
青空に浮かぶ、大きな入道雲を見上げる。
なんて、広大で、穏やかなのだろう。

その瞬間、僕が小さな頃に感じていた、
さまざまな形のしあわせな記憶が溢れ出してきました。

この気持ちさえあれば、
このさきにある、いろいろな不安や困難も、
しっかりと向き合いながら、日々を過ごしていけるかな。

そんなことを思いながら、
ゆっくりと夏のはじまりをサイクリング。

よりよく生きるための音楽 

最近、いろんなことを忘れやすい。

人から頼まれていることだったり、
期日のあることたちも、
ついついうっかり忘れそうになる。
そんなことをしていては、たいへんなので、
メモを頻繁にとるように心がけたり。

でも、そういった忘れては困るという事柄以外の、
日常での身の回りで起きている、
小さなよろこびだったり、
感謝の気持ちだったり、
ちょっとした違和感だったり、
そういったことは、気づかぬうちに忘れているのかもしれない。

*

ここ最近は、euphoriaのアルバム制作に、多くの時間を使っています。
締め切りも、日に日に迫ってきていて、ときには、
焦りも感じてしまって、頭がぐしゃぐしゃになってしまうことも。
そして、そうしているうちに、
身の回りに起きている、ほんの些細だけれど、
とても大切なことたちを見逃してしまっているような。

こんなことでは、本末転倒。

なにげない日常にある、
ほんの小さなよろこびだったり、しあわせだったり、
(ときには、それは目には見えないものだったり、
 触れることのできないものだったり)
を大切にしたいと思って、音楽をしているのだから。

そういったことたちが、豊かな日々をささえていると思うのです。


日々を豊かに、
よりよく生きるために、
音楽をつくっていけるように。


はじまる前から、そんな予感

吉祥寺warpでのライブ。

リハを終えて、小雨が降るなか、横尾という、
お気に入りのカフェまで歩く。
その途中、街灯に照らされた、夜桜がきれいで、
ちょっとのあいだ、立ち止まる。
このところ、ライブ準備やアルバム制作で時間がなく、
お花見できないことを悔やんでいたけれど、
この一瞬の桜で、なんだか十分に満たされた気持ちに。

横尾は、やはり、いつ来ても、落ち着いた気分になります。
自分のなかにあるさまざまな事柄に、
YESと応えたくなる感じ。

一見、素朴に見える、インテリア、
実は、とても手が込んで作られているんだろうな。
木の質感をそのまま大切にした机だったり、
天井からつるされた裸の電球だったり、
並べられた本の置き方だったり、
細かなもの、ひとつひとつがここちよい。

こんな部屋に住みたいな、こんなスタジオをつくりたいな、と、
わくわくした思いをひろげてみたり。

ゴルゴンゾーラチーズの焼き豆餅とマンデリンブレンド。
なんとも美味。
きっと今日のライブはだいじょうぶ。

落ち着いてよいライブができたな、と思える日は、
はじまる前から、そんな予感を感じていることが多いです。

打ち上げの席では、共演したarのみなさんとのお話で盛り上がる。
音楽への向き合い方など、共鳴することが多く、
音楽を軸にいろんな話題にひろがって、気づいたら、朝の5時。

自然だったり芸術だったり、そういったもののなかに、
社会が存在しているはずが、
すべてを社会に詰め込もうとしている状況。

いろんな角度から考えてみたいテーマです。


彼は、きらきらとした表情で

"december"という新曲のミックス作業に苦戦する。
主旋律を奏でるギターを前面に持ってくると、
ドラムが寂しくなって、だからといって、ドラムの輪郭を強調すると、
今度は、ギターが、ぼやけてくる。
そして、ベースの位置をどこまで低くもっていくか、
などなど、さまざまな方向を行き来して、迷い込んでしまいました。

*

そんなタイミングで、玄関のベルが鳴って、
誰かな、と思って、階段を降りると、
1年ぶりに会う高校の同級生。
通っていた高校は、そのまま大学につながっていて、
僕は他の大学に行ったのですが、
彼はそのまま進学して、卒業。
それから今度は、大学の教育学部に入るために、
まるまる2年間、猛勉強していて、
先日、めでたく、京都の大学に合格したとのこと。
これからはじまる、新入生としての大学4年間を
彼はきらきらとした表情で心待ちにしている。

「教師という道に限らず、さまざまなことを経験していきたいんだよね」
という力強いことば、かっこいいなぁ。

「森川は、最近はどうしてるの?音楽してるんだよね。」

「うん、どこまで行けるかなんてわからないけど、
 今の時期にどれだけ充実させられるかが重要だと思ってるんだ。」

そして、「お互いがんばろうね」、と笑顔で声をかける。
5月にはeuphoriaのライブが京都であるので、
そのとき、会おうね、といって、「じゃ、またね!」

*

とても前向きな気分で、階段をあがり、部屋に戻る。
そして、スピーカーの前での作業を再開。

ちょっと気持ちをゆっくりと

春の日差しを浴びながら、
梅の香りのする方へ、ふらりと散歩するのが、
僕のしあわせだったりするのですが、
今シーズンから、花粉症デビューで、
外に出るのが辛くなって、なんともかなしい。

自転車に乗っていたときに、携帯を落としてしまい、
夜、家に戻ってから、懐中電灯片手に、
通った道をひたすら探すも、
見つからず、途方に暮れる。
翌日、交番に行くと、親切に届けてくれた人がいて、
ほっと、ひと安心。

車でスタジオに行く途中に、
住宅街の細い道で、乗用車と出合い頭の事故。
少し首を痛めた程度で、大きな怪我はなかったけれど、
車の傷はだいぶ大きい。


と、なんだか、ここ最近、嫌な出来事が立て続けに起きていて、
どうしたものかと、深呼吸。

今朝、amazonから届いた、
映画「めがね」のDVDでも観ながら、
ちょっと気持ちをゆっくりとさせようと思います。


2羽が寄り添って

これからしばらくは、euphoriaの新しい作品の、
オーバーダビングやうた録音やミックス作業などで、
家に閉じこもることが多くなるので、
ひきこもりになってはよろしくない
(音楽にも体調にも精神にも)
と思い、とりあえず、今日は夕方に1時間ほどのランニング。

夕陽が沈みかけていて、ほのかにオレンジ色に染まった、
川沿いのサイクリングコースを走っていると、
僕の頭上をカルガモが2羽、
仲良く寄り添ってゆらりゆらりと飛んでいって、
そのすぐ後には、小鳥が2羽、
仲良く寄り添って颯爽と駆け抜けていった。

なんだか、それは、とても美しい光景に感じました。

春を感じる瞬間

スタジオの床にて、明け方4:30から6:00までの仮眠。
部屋の音響特性を調整するために持ち込んだ毛布が、
こんなところで役に立つとは思ってもいませんでした。

72時間リハスタを借り切ってのレコーディング、
いつもよりはゆとりがあるかな、と思っていたけれど、
音作りに多くの時間を費やしたため、
なかなかハードなスケジュールとなり、
予定していた録音を終えた4日目の朝には、
頭はほぼ思考停止の状態。
そのまま、レンタルした機材を新大久保まで届けに行ったのですが、
そこに向かう途中、カーナビが狂っていたのか、
はたまた、僕がおかしかったのか、
同じカーブを3回もぐるぐる回っていて、
今、その状況を思い出すと、笑いがとまりません。

うとうとしてしまってはいけないと思い、
車の窓を開けて、風にあたりながらの帰り道。
そういえば、もう3月になったんだ。
ipodをつなぐのも億劫だったので、J-WAVEを聴いていると、
「あなたが春を感じる瞬間」という特集をやっている。
僕は車の窓からの穏やかな日差しと、
ほんのりあたたかい風を感じながら、
予想外に心地のよいドライブを楽しみました。


ちょっとしたこと

ちょっと面倒だな、ということ。
それをする労力なんて微々たるものだけど、
それをしないでいると、
後になって、かなり大きな問題にふくれ上がってしまう。

それとは反対に、
そのちょっとしたことを
ひとつひとつこなしていくことで、
いつのまにか、日々の暮らしが大きな充実感に満たされていく。


雪解けとモンポウ

窓を開けて聴こえてくる、雪解けの音のやさしさや、
フェデリコ・モンポウのピアノ曲のしなやかな音色に、
耳を傾けることで、ときどき耳を休ませる。

euphoriaのプリプロテイクのミックスと、
auxinのアルバムのミックスに多くの時間を費やす日々。

ここ数日間、体のなかで、
もっとも酷使されているのは、
間違いなく、耳でしょう。

耳が鍛えられている感覚が確かにあります。

そして、この耳と仲良くしていかなくては、と思う今日この頃です。


*


snfl.jpg

朝のひかりに目を細める

euphoriaのプリプロレコーディング、
翌日はorganic stereoのPV撮影で、
両日、朝4〜5時に起きるというスケジュールでした。

朝の苦手な僕も、さすがにこうやって予定が決まっていると、
しっかりと早起きができます。
街の色がまだ薄暗いなか、車を運転していて、
だんだんと広がってくる朝日を受け止めるこの感覚。
とても清々しい気持ちになります。

本来、人の生きるリズムはこうあるべきなんだろうな、
なんて思いながら、フロントガラス越しの朝のひかりに目を細める。

*

朝方の生活リズムにシフトしたいと、常々思っているものの、
なかなか、実現できずにいるのですが、
思えばいつも、一気に早い時間に起きようとして、失敗ばかり。
これからは、1日ごと、ほんの15分ずつ、
早く起きる習慣を積み重ねていきたいなぁ、と思っています。

苦手意識はあるけれど

euphoriaのプリプロレコーディングを明日に控え、
機材まわりの準備をしていました。

録音のときにとても重要なマイクプリアンプの、
真空管を新しいものに交換してみたり。

tube.jpg

工作とか、電子機器の組み立てとか、
あまり得意ではない、
というか苦手意識のほうが強い僕なのですが、
それ以上に、よい音を録りたいという追求心が勝って、
こういった細かな作業もするようになってきました。

苦労しながらも、自分なりに手を加えてみて、
求めている音に近づいたときのよろこびは、
とても大きなものだったりします。

ミドルレンジの伸びが心地よくなったマイクプリアンプ。
明日の録音では、スネアのマイクに通してみようかな。


ぼんやりとした時間

いろいろと予定が多い日が続いて、
ちょっと体調を崩してしまいました。

体調が悪いから気分が落ち込むのか、
気分が落ち込んでいるから体調が崩れるのか。

そんなことを考えながら、
過ぎていく、ぼんやりとした時間。

音から風景を感じること

レコーディングエンジニアとして、
AUXINという5人組バンドの録音。

土曜日の夕方から日曜日の夕方までの24時間パック。
4曲プラス、短めの2曲、合計6曲の録音という、
過酷なスケジュールでしたが、メンバーの素晴らしい集中力で、
見事、すべての楽曲を録り終えました。

euphoriaのレコーディングのときと違って、
僕は、ギターを演奏する必要がなくて、
その分、今までよりも、思う存分、
マイクの位置や、録り音に、
意識を集中させることができました。

引き続き、ミックス作業も担当します。

先日、AUXINのライブを観させてもらったときのこと。
彼らの奏でる音から、美しい風景が
浮かび上がってくる瞬間がありました。
その風景をしっかりとCDに収められるように、
ていねいに作業を進めていきたいと思っています。

「音から風景を感じて、それを形にしていく」
それが、僕がエンジニアをするうえで、
もっとも大切にしたい部分なのです。

知らない時間

11:00〜の渋谷FM収録が、お昼に終わり、
16:00〜のレーベル事務所での
organic stereo PVミーティングまで
だいぶ時間が空いたので、
それまで、渋谷から代官山あたりをのんびりお散歩。

ミーティングを終えて、
22:00〜の大学時代の友人の誕生日パーティーまで
だいぶ時間が空いたので、
またまたのんびりとお散歩。
同じ場所を、日中と夜とで、歩いてみるのはおもしろい。

アットホームな雰囲気での誕生日パーティー。
みんながすてきな表情で過ごすその時間は、
なにものにもかえがたい温かなひととき。

しかし、パーティー慣れしていない僕は(笑)、
去り際を見失い、慌てて渋谷駅に駆け込むものの、
自宅までの終電を見事に逃す。
これは困ったと、さまざまな案を考えて、
ちょっときれいそうなネットカフェ(リクライニングチェア)で、
始発を待つことに。

深夜のネットカフェ(リクライニングチェア)で過ごす、
なんとも興味深い時間。
バックにたまたま入っていた
sigur rosのDVDを観ようかなと思ったけれど、
あの壮大なスケール感と、今いるこの場所との、
これ以上ないほどのかけ離れた関係性を考えて、
なんとも滑稽に思えて、短い眠りにつく。

駅のホームで始発の電車を待つ人たち。
その混雑具合にびっくり。週末とはいえ、
ここまで混み合っているものとは。
外はまだ真っ暗で、一見、
普段の夜の駅のホームにも見えるのですが、
人の表情や動き方がおもしろい。
きっと僕もそうなっているんだろうなぁ、
なんて思いながら、長い1日が終わりました。


吸い込まれゆく音のひびき

朝、目が覚めると、
外の景色は、しーんと静まり返っている。

yuki_01.jpg

あらゆる音が、雪に吸い込まれていく、
そんな響きを味わいながら、
あたたかなコーヒーをのむ。
なんとも至福のとき。

お昼過ぎに散歩に出かける。
家のすぐ近くの森林公園にも、
(organic stereoの楽曲や、euphoriaのライブSEで
ときどき登場する、環境音の多くはこの場所のものです。)
うっすらと雪が積もりはじめていました。

river.jpg


ヘッドフォンから聴こえるのは、
雪のように儚く、美しい、女の子のうたごえ。
そういえば、昨年に東京で雪が降ったときにも、
この音楽を聴きながら、外を歩いたっけ。
なんとも至福のとき。

inos.jpg
The Innocence Mission / Befriended

大寒に曲を作りためる

小寒 → 大寒 → 立春。
暦の上では、寒の真ん中、
今日から一年で最も寒い時期に突入。

昨日の予報で、明朝には東京に初雪が、
となっていて、ちょっと楽しみにしていましたが、
初雪はもう少し先になりそうです。

寒さが苦手な人にとっては、厳しい季節ですが、
僕は、このくらいの気候のほうが、
いろいろとはかどる人なので、
今の時期のあいだに集中して、
euphoriaの新しい作品に収録する新曲たちを、
どんどんと作りためていきたいものです。

こう思うと、僕は、冬眠ではなくて、
夏眠が必要なのかなぁ、なんて考えてみたり。


すきまを好む

びっしりとつまっているよりも、
隙間があるほうが、心地よいなぁと、
最近つくづく思うようになりました。

すてきだなぁと、思う人には、
確かな意志のあいだに、しっかりと隙間がある。

いいなぁと、思う音楽にも、映画にも、文学にも、
心地よい隙間が存在している。

そんな隙間には、
無限の可能性が秘められているように、思うのです。


小さな変化が支えている

ちょうど一年前の今日、1月13日に
euphoriaの2ndフルアルバム"white pattern"が完成しました。

昨年の年明けは、1月1日を迎えても、
制作作業の追い込みに懸命で、
新しい年を迎えた実感がなくて、
その頃のvoiceには、

「僕にお正月がやってくるのは、
 いま、制作のおおづめをむかえている、
 2ndフルアルバムが完成したときです。」

なんてことを書いていました。
ですので、完成した1月13日のことはよく覚えています。

それまで連日徹夜作業をしていたにも関わらず、
マスタリングスタジオから夜に家へ戻ると、
いろんな感情が込み上げていて、
なかなか眠れなかった、いや、寝ようとしなかったことも、
鮮明に思い出すことができます。

そして、そのときに、日記を書き始めたのでした。

「・・・というわけで、アルバム完成で、めでたくお正月を迎えた僕は、
 2007年のはじまりとして、この日記をスタートします。」

そう書かれたページからはじまったこの日記。
1月くらいまでは、毎日のことが書いてあるのですが、
それからは、3日ペース、5日ペースくらいになっていて、
大忙しのときや、疲労がたまっているときは、
だいぶ間隔が開いていたり。
初のワンマンライブに向けて準備をしていた夏の時期は、
ほとんど、ぽっかりと開いていて、
その頃、いかに自分が時間に追いつめられていたかということが、
半端な文章を書くよりも、リアルに伝わってきたり。

結局、かなり不規則で、マイペースな日記帳になってしまいましたが、
昨年の暮れにちょうどその1冊が終わりました。
日付が飛ばし飛ばしとはいえ、
なかなかぎっしりと内容がつまっていて、
それらを読み返してみると、
今の僕が大切にしたいと思っていることの、
その核になる部分は全く変化していないのですが、
それに対するアプローチの仕方、
視点の位置だったり、考え方などが、
微妙に動いてきていることが興味深かったです。


自分のことでも、身の回りのことでも、
大きな変化でなにかが、がらっと変わる瞬間が、
あるように考えがちですが、
そんなときにでも、実は、なにかしらの小さな変化が、
気づかぬうちに積み重なっているのではないでしょうか。

そういった、小さすぎてついうっかり忘れてしまうような事柄が、
以外と、なにかで迷ったり、落ち込んでいるときに
そっと自分を支えてくれるということも、
あるのではないかな、と思った僕は、
2008年も日記をつけています。

昨年は、きっちり文章にしなくては、という形式で、
少々固っ苦しい感じもあったので、
今年は、メモをとる感覚で思い浮かんだことを
ぽつぽつと書き残すスタイルです。

水を味わうように

透明のコップに注いだ、
冬の水はとてもおいしいです。

*

こないだ、
利き水の専門家についてのお話を本で読んだのですが、
その能力にとてもびっくりしました。

僕のイメージとしては、
水道水かミネラルウォーターの違いくらいは当たり前で、
きっと、どこでとれたミネラルウォーターなのかも、
分かったりするのだろうな、と思っていました。

ところがところが、そんなレベルではなくて、
同じ水道水でも、どこの浄水場の水なのかまでが分かるそうで。
水道は安定給水のために縦横に管が走っていて、
一系統の水ばかりではなく、ブレンドされている地域もあり、
たとえばこれは朝霞浄水場の水、金町浄水場の水、
今日は朝霞の水の割合が多いな、
ということまで分かってしまうとのこと。

ここまでくると、もう曲芸の世界の域ですね。
ただただ驚くばかりなのですが、
でも、それと同時に、
水を飲むとき、触れるとき、
水は水でしかないと思い込んでいる自分も、
ちょっと鈍感すぎるのかな、なんて思ってしまいました。
固定観念を振り払って純粋に水を飲むことができたら、
利き水の専門家には到底及ばなくても、
なんとなくの味や匂いのちがい程度は感じられるのかもしれない。


「水」ということばでまとめてしまおうとするのではなくて、
それ自体と純粋に接するということ。
そんな感覚を日常のさまざまな場面で大切にできたら、
きっと、彩り豊かな毎日になるのではないかな。

透明のコップに注いだ、冬の水を味わいながら、
そんなことを思いました。

日常を奏でる

歌うときや、ちょっと難しいギターフレーズを弾くとき、
慎重になりすぎて、音程やリズムといった、
その瞬間の出来事しか意識できなくなる時があります。
そういうときは、ほとんどがうまくいかない。
たとえ弾くことはできても、人に届く力はない。

こんなときに、
もっと大きなものを感じられたらよいのに、と思います。
たとえば、フレーズ単位で考えたり、
ことば(歌詞)の世界観を思い浮かべたり、
曲の持つ雰囲気に思いを巡らせたり。

そうすることで自然と、
今、奏でるべき音もしっかりと鳴らすことができるのです。

この感覚は、日常にもそのまま置き換えることが可能だと思います。
目の前のことばかりに振り回されることなく、
広い範囲で、ものごとを視野に入れられるようになりたいものです。


空気の感触

昨日のこと。
ちょっと用事があって、車を使おうと思ったのですが、
元日の雰囲気に直に触れたくて、自転車で。

元日の空気の感触は特別な感じがします。
その空気の存在がさまざまなものを、
ほんの少しきらきらさせているような。
この感じが僕は好きです。

元日だからって、どうってことないよ、
という人もいるのかもしれないけれど、
でも、普段よりもずっと多くの人が、
なにかしらの希望を感じている1日なのではないかな。
この空気の感触は、きっとそこから、
きているのかもしれない。

道を歩く、家族連れがとても多い。
そんな、いかにもお正月な光景を眺めながら、
ほのぼのとしたサイクリング。


静かに湧いてきています

あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくおねがいします。

*

昨年は、うれしいこともつらいことも、
たっぷりとあった1年でした。
そして、そんな時間を通して、
自分が大切にしたいものが、
だんだんと明確に見えてきているように感じています。

そうして迎えた2008年度、
きっとよい年になるのではないかなと、
(こんなこと、いつもはあまり思わないのですが)
そんな気持ちが静かに湧いてきています。
きっと、つまずくこともあるでしょう、
行き詰まることもあるでしょう、
途方に暮れることもあるでしょう、
でも、そんなことも含めて、
前向きな姿勢で、この1年を大切にしたいと思っています。

しなやかな軌跡

朝からeuphoriaの曲作りでスタジオへ。
次の作品に収録する曲がだんだんと形になってきています。

その後、そのまま近くのファミレスに移動して、
2008年度のeuphoriaの活動についてのミーティング。
曲作りの行程やレコーディングの日程といった具体的なことから、
どんな姿勢でなにを大切にしていこうかという、意識的な部分まで。
いつになく内容の濃いミーティング。
来年の今頃、またこうして、ミーティングをしている時のことを思い、
その時に、しっかりとしたステップアップができている状況を思い描きながら、
これからのeuphoriaがとても楽しみになってきています。

*

家に戻ると、もう夜になっていて、
スタジオやミーティングが充実していた分、
疲労感もどっと出てきていたのですが、
今晩は、双子座流星群が見える日だ、と思って、
夜中25時頃、芝生の丘になっている公園まで出かけました。

かなりの防寒体制で、
地面に敷くシートもちゃんと持っていったのですが、
12月の夜、それでも凍える程の寒さ、
おまけに、だんだんと雲の数が増えてきて、星の数もまばらに。
それで、ちょっと元気がなくなってきたのですが、
ぼんやりと夜の闇に浮かぶ雲の流れを見ていたら、
眠気がよい具合に働いたのでしょうか、
僕が横たわっている、芝生の丘が、
大きな船になって動いているような感覚に。
これぞまさに夢心地。

そんな時に、雲と雲の間で、ひとすじのまばゆい光に遭遇。
流れ星というと、満点の星空での出来事のように思っていましたが、
雲と雲の狭間に見えた、不思議な輝きを持つ流れ星。
そのしなやかな軌跡は、こころにしっとりと、
でも確かなものとして、刻まれました。

風が吹くと、わずかな落ち葉が舞う

お昼、サンドイッチを持って、公園へ。
東京の紅葉も、だんだんと見応えのあるものになってきました。
風が吹くと、わずかな落ち葉が舞う。
その落ち葉は数えられる程なので、一枚一枚を見届ける。

僕の着ていたパーカーに、蚊がとまっていることに気づく。
11月、もうだいぶ肌寒いけれど、まだ蚊と出会うなんて。
パーカーの上をあちこち移動して、必死にもがきながら血を吸おうとしている。
生き残れるかどうかの瀬戸際なのでしょう、異常な程の動き方からは、
その懸命さが伝わってきます。

紅葉に出会える蚊はだいぶ稀な存在ですね。

*

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深煎りの珈琲

明日から一週間、旅行に出るので、
いいタイミングと思い、korgのキーボードを修理に。
これは、僕の機材周りで重要な役割(マスター鍵盤)で、
あまりに修理の時間がかかってしまうのは不便だったので。

下高井戸のkorg修理センターに直接持ち込んだその帰り、
そういえば、前々から行ってみたかった、
おいいしい珈琲のお店が近くだな、と思い、ふらっと寄り道。
珈琲に詳しい百景のタナカさんに以前教えていただいた、
千歳船橋にある珈琲工房ホリグチへ。

お店へ入るとすぐに、心地よい香りが漂っている。
BGMもなく、店員さんの真剣な表情などから感じる雰囲気は、
いつものドトールやスタバと違って、ちょっと緊張。
店員さんは珈琲を煎れて小さなカップで煎り具合をひと口確認してから、
テーブルに持ってきてくれる。ますます緊張。
僕は、姿勢を正して、ゆっくりと味わう。

これがこれが、めまいがするくらいに美味しいのです。
小さなカップに注がれた珈琲に、ここまで感動させてもらえるとは。
この初めての味覚との出会いは、だいぶ衝撃的でした。

日々を過ごす中で、
僕には知らないことや分からないことが山ほどあって、
そのことに向き合うたびに、
不安になったり心細くなってしまうような僕なのですが、
珈琲工房ホリグチの深煎りの珈琲を飲みながら、
知らないことに出会うことの素晴らしさを感じていたのでした。

移ろい続ける季節の中で

しばらくの間、制作作業に追われ、だいぶ忙しい毎日だったので、
スタジオ兼、僕の部屋もだいぶ荒れ放題になっていました。
これでは、新しい曲の制作もはかどらないので、
ちょっとゆとりのできた今のタイミングで、整理整頓を。
人それぞれだと思うのですが、僕の場合、
部屋のきれいさに比例して、よいアイディアが湧いてくるようなので、
ひとつのプロジェクトを終えるごとに、大まかに整理しています。

そして、生活の習慣も、元通りに修正しなくては、と、
ひさしぶりに、1時間弱のランニングに出かける。
相当ご無沙汰していたランニングシューズを履いて、夕方に家を出る。
体力の衰えをだいぶ心配しながらの道のり。
走っている最中、見る見るうちに、日が沈み、暗闇が僕を包む。
どれほど、タイムが落ちてしまったのだろう、
そんな不安を抱えながら、家に戻ると、
それほどのタイムの変化はなかった。

どうやら、季節が確実なスピードで動き続けていることを、
うっかり忘れていたようです。