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地元の本屋さん

どこか知らない街に行ったときの、
僕の楽しみのひとつは、地元の本屋さんに立ち寄ること。

しっかりとした本屋さんがある場合は、
郷土本コーナーのようなものがあって、
そういったところに並ぶ本を眺めることも、もちろん楽しいですが、
あまり人口の多くないような田舎街の
こじんまりとした本屋さんに並ぶ、
数少ない限られた本の中を、一冊ずつ眺るこということも、
東京の暮らしにはあまりない体験で、わくわくします。

そして、これにしようと、レジに持っていくと、
大抵は、おばあさんやおじいさんが
椅子に座ってのんびり会計をされていて、
にっこりやさしい笑顔と、その地元商店街のくじ引き券をくれたりします。
そのくじ引き券は10枚で1回とかで、本1冊では足りないので、
そのくじ引き券をしおりにして、読みはじめます。

そして、そのときの1冊が、その後の自分にとって、
とても大切な1冊になることも多いのです。

昨年の夏、北海道で各駅停車の旅をしている途中、
長万部という駅を降りて、商店街を歩きました。
小さな本屋さんに辿り着き、数少ない本から、
1冊の本を選びました。
以前に雑誌のコラムでその人の書いた文章を読んで、
なんとなくの興味を持っていた、内田樹のエッセイ。
各駅停車の中で、「この人はなんて頭がよいのだろう」と感動しながら、
大変おもしろく、ぐいぐいと読み進めたことを覚えています。

そして同時に、長万部の商店街を歩いて見た光景も思い出します。
多くのお店のシャッターがしまっていて、
人の数がまばらだったこと。
薄曇りの天候で、途中、小雨が降り出したこと。
ほとんど人通りのないところにある、
半分シャッターがしまったお店で、ミニたい焼き20個セットを、
自然体の美しい笑顔で焼き上げていたおじいさんのこと。


東京では、品揃えの多い本屋さんを選んで足を運び、
本を読んでもいい椅子でゆっくり眺めて、本を買ったり、
もしくは、amazonで、ポチッと家にいながら購入したり、
そんなことが習慣になっています。

なんて便利で、快適なんだろうと思うことが多いですが、
でも、田舎街の本屋さんでしか得ることのできないものも、
きっと、確かに存在しているなぁ、と思うのです。


グズリという動物とマンデリン

昨日の校長先生の珈琲屋さんでは、
深い味わいのマンデリンと共に、
星野道夫の「イニュニック」というエッセイを読んでいました。
著者がアラスカの友人にすすめられて、現地の土地を買って、
自分の家を建てるときのお話からはじまります。

アラスカでの雄大で厳しい時間の流れ。
マイナス50度にもなる厳しい冬は、
ここ北海道でも、まったく比べものにならないけれど、
それでも、東京で読むよりは、少しはよいかなと思い、
持ってきた本でした。

マッキンレー国立公園で50年以上も
野生動物を撮り続けてきたカメラマンの、
もう80歳を過ぎた、チャーリー・オットーという人のお話。
誰よりもこの国立公園を知り尽くし、愛している彼の口ぐせは、
「今年もグズリが撮れなかったよ。」
50年以上も写真を撮る中で、グズリという動物がまだ撮れていない。
そんなチャーリーになぜか感動してしまうという
著者の文章がつづられています。

「人間の生き甲斐とは一体何なのだろう。
 たった一度のかけがえのない一生に、
 私たちが選ぶそれぞれの生き甲斐とは、
 なんと他愛のないものだろう。
 そして、何と多様性にみちたものなのか。」


カウンター越しにいるマスターとお客さんのおじさんとの会話が
たまたま僕の耳に入ってきた。

「昨日も札幌で、珈琲の勉強会があってさ、
 いかに味を正確に見極めるかということで、
 カップで何度も何度も、飲み比べて、
 その都度、味覚を集中させるから、とても大変。
 豆の種類の違いではなく、たとえば、
 マンデリンの豆の中でも4つのランク分けがあって、
 それを正確に見極めていくのね…」

ふと、さきほど読んでいた、星野道夫のことばと重なりあう。

人間の生き甲斐とは一体何なのだろう。
そして、僕の生き甲斐はどんなことだろう。

マスターの煎れてくれた味わい深いマンデリンが、
じんわりと僕のこころに染みわたってきました。

気高い人へのあこがれ

「必要以上のことはしない、しかし逃げもしない、
 他のいろいろな味付けでごまかさない。
 私はその性質を、その強さも弱さも含めて一言で、
 言いあらわせるように思う。彼女は気高い人だ。」

吉本ばななの “明るい夕方” という短編での一節。

今の僕からは、ほど遠い、この彼女の存在。
僕は、こんな人に対して、強いあこがれを持っています。
自分がそうなりたい、理想像とでもいうのかな。

そして、同時に、
この彼女の存在のような曲を書くことができたら、
この彼女の存在のようにライブをすることができたら。
どんなに素晴らしいことだろう、と思うのです。


ジョアン・ジルベルトの "声とギター" という、
僕のお気に入りのアルバムを聴きながら。
気高い人について、さまざま思いを巡らせています。

*

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João Voz e Violão / João Gilberto

休ませてあげる

「休んでしまう」ではなくて、「休ませてあげる」。
自分の体に、そう言い聞かせることのできる
余裕を持ちたいものです。

いつも体調が崩れかけてから、
仕方なく、今日は早めに寝なくては、
と考えてしまっていたところを、
常日頃から早めの就寝をこころがけることができたら。
そこから生まれたよいリズムは、
それまでの夜更かし作業の連続よりも、
きっと質の高いものを作りだしていけるはず。

ここ最近、体の大切さをいろんな場面でつくづく感じています。

今日読んだ「体は全部知っている」という吉本ばななの小説も、
今の僕にタイムリーなお話で、なかなかの読後感でした。


水を味わうように

透明のコップに注いだ、
冬の水はとてもおいしいです。

*

こないだ、
利き水の専門家についてのお話を本で読んだのですが、
その能力にとてもびっくりしました。

僕のイメージとしては、
水道水かミネラルウォーターの違いくらいは当たり前で、
きっと、どこでとれたミネラルウォーターなのかも、
分かったりするのだろうな、と思っていました。

ところがところが、そんなレベルではなくて、
同じ水道水でも、どこの浄水場の水なのかまでが分かるそうで。
水道は安定給水のために縦横に管が走っていて、
一系統の水ばかりではなく、ブレンドされている地域もあり、
たとえばこれは朝霞浄水場の水、金町浄水場の水、
今日は朝霞の水の割合が多いな、
ということまで分かってしまうとのこと。

ここまでくると、もう曲芸の世界の域ですね。
ただただ驚くばかりなのですが、
でも、それと同時に、
水を飲むとき、触れるとき、
水は水でしかないと思い込んでいる自分も、
ちょっと鈍感すぎるのかな、なんて思ってしまいました。
固定観念を振り払って純粋に水を飲むことができたら、
利き水の専門家には到底及ばなくても、
なんとなくの味や匂いのちがい程度は感じられるのかもしれない。


「水」ということばでまとめてしまおうとするのではなくて、
それ自体と純粋に接するということ。
そんな感覚を日常のさまざまな場面で大切にできたら、
きっと、彩り豊かな毎日になるのではないかな。

透明のコップに注いだ、冬の水を味わいながら、
そんなことを思いました。

ひとつだけで存在しているものはない

ちょっと前に、江國香織の「雨はコーラがのめない」という、
著者と愛犬とのつながりをモチーフにしたエッセイを読みました。

このエッセイでは、著者と愛犬「雨」が過ごす、
あたたかくて愛情のあるみちたりた時間が描かれています。
一緒に音楽を聴いたり、散歩したり、遊んだりする中での、
そのひとつひとつの描写には、あたたかみが感じられて、素敵です。

このエッセイを読んでから、
街ですれ違う犬の散歩の光景の見方が変わってきました。


外を歩いていて、犬の散歩をしている人に出会うと、
今までは、「かわいい犬だな」、「愛嬌ある犬だな」、という具合に、
犬ばかりに気をとられていたけれど、
犬の仕草からだんだんと視野を広げて、
飼い主さんと愛犬とのつながりを想像するようになりました。

犬がしっぽをふりながら楽しそうに歩くのも、ふてぶてしい仕草をするのも、
飼い主さんがしあわせそうなのも、イライラしているのも、
そこには、無意識だとしても、お互いのつながりがきっと存在している。


考えてみれば、僕たちの身の回りにあるものたちも、
そのものひとつだけで存在しているものはないわけで、
そんな「もの」と「もの」とのつながりあいに、
もっと意識的に関心を持つことができたらと思います。
そうしたら、毎日がより豊かになっていくのではないかな。
そして、世間で絶え間なく起きている、あまりに残酷な出来事も、
だんだんと減らしていくことができるのでは、と思います。