わからないままにすること、平和を願うこと

「分からないままにする」ということは、
とても高度なスタンスであると思います。

学習塾や予備校などの宣伝で、
「分からないままにしない」
というようなフレーズがあったような気がします。
確かに、受験のための勉強では、分からない部分があったら困る。

でも、学生生活を終えて、2年ほど過ぎた今、感じていることは、
「分からないままにする」ことの大切さについてです。

例えば、なにか自分とは異質のものに出会ったとき、
意味不明ということでその場で切り捨てるということは、
「分からないままにする」ということではないと思うのです。
もうすでに無いものとなっているわけだから、
そこには、「分からない」という概念も存在していない。

また、異質なものと出会っても、
それまでの自分の知識のなかで、
強引に処理してしまう傾向も、頻繁にあるので、
そういった意味でも、「分からないままにする」ということは、
大変、難易度が高いと思います。

身の回りには、「分からない」ことがたくさんあります。
そうしたものと「分からないまま」向き合い続ける。
その時間のなかで、思うこと、感じることを通して、
学びとったことは、いつまでも自分のなかに残るのでは。


そして、人と接するときも、
出来る限り、「分からないまま」でいられたらと思います。
他人と完璧に「分かりあえる」ことなんて
不可能である、ということを根底に置きながらも、
それでも、「分かりたい」という姿勢からでしか、
平和を願うこともできないのではないかなぁ。